「郵便物不配(前)」(2019年06月13日)

インドネシアでは郵便物が届かない、ということが昔から外国人の間で言われてきた。わ
たしの長い在住体験から言うと、それはどうやら郵便配達夫のレベルに深く関わっている
ように思われる。

ジャカルタに住んでいたときの体験では、わたしの生活環境内にいるインドネシア人宛て
の郵便物が別のRWのある家に配達され、その家のひとがわざわざかなり離れているわが
家まで持って来てくれるということがあった。住所名前は正しく書かれており、別のRW
で通りの名称まで違う家に配達されること自体が異常な印象を受けるのだが、なんと互い
に面識のないその両人が同一の名前だったことがそのミスを誘発したのではないかと想像
されたのである。きっとそのひと宛の別の郵便物がそのときあり、住所の違いを見ずに、
名前で合わせて違う住所に届けたという状況が推測された。われわれの常識からすると信
じられないようなできごとだが、そこに見られるファクターに着目するなら、そんな可能
性が浮かび上がるのである。


バリ島では、わたしの家の郵便箱に同じバンジャルだが遠く離れた住所への郵便物が投げ
込まれていたことが数回あったし、わが家宛の郵便物と一緒に近隣の家宛ての郵便物が入
っていたことも何度かある。まるでわが家が向こう三軒両隣どころか、この通り一帯の代
表者であるかのような扱いだ。

バリ島のわたしが住んでいる村では、家の門に郵便箱を備えている家屋はあまりない。イ
ンドネシアは概して全国的に、一般庶民の暮らしというのは高中流住宅地と違って家は開
放的であり、常にだれか人間がいて、外からアプローチしてくる人間にいつでも対応でき
る状態が普通なのである。つまり郵便配達夫が他人の郵便物を届けると、その家の人間に
「これはうち宛てじゃないよ」とその場で突き返される構図になっているわけで、郵便箱
のある家というのは間違い郵便物を投げ込んで立ち去ることが可能な数少ない場所という
ことになる。

インドネシアの一般状況についてもう少し説明するなら、インドネシアの住宅は住人の個
人名を家の表に決して表示しない。家の外から見れば、番地だけが表示されているのが普
通で、通り名すら書かれていない。通り名はその通りの入り口に立札が表示されているか
らすぐわかる。

郵便配達夫にしてみれば、かれの仕事にとって名宛人の表示というのは何の意味も持たな
いことになるわけだ。そうなると、上述のジャカルタにおけるできごとが一層謎を深める
のだが、詮索はもうしない。

郵便物配送メカニズムを見る限り、わが家の郵便箱に投げ込まれた郵便物が地理的にまっ
たく無縁のものでないことから、それらは明らかに最寄の配送局まで正しく届いているこ
とがわかる。そして?最終ステップの戸別の家への配達に携わっている配達夫の人材レベル
が極端にひどいのではないかということも、それらの事象から推測されるのである。

ただし上のような「事件」をバリ島で体験したのはもう何年も前の数年間で、郵便配達夫
が替わってからは間違い郵便物が投げ込まれることもなくなったから、ひとによるのだと
いうことも明らかになっている。

わたし個人はそのような不良配達人の手抜き仕事をただ単に怠けるだけが動機であるとは
思っていない。たとえばわたしの住んでいるバンジャルのずっと奥の方にひとつだけ郵便
物があったなら、それをどこかに投げ込んでガソリン消費を節約したいと考えるだけの経
済観念は持っているようにわたしには思えるのである。インドネシア人は怠け者だと言う
外国人は多いが、それはかれらの価値観に従って考慮した結果そうするほうが得だという
判断にもとづくものであることのほうが多いとわたしは見ている。
「お前たちは毎日ぐうたらして怠けているから進歩しない。もっと勤勉に働けば豊かにな
って幸福になれる。」と外国人が言ったのに返して、「今のままでもう幸福なのだから、
なにをあくせく働くことがあろうか。」と答えた島の人間の言葉がそれを示しているので
はあるまいか。[ 続く ]