「ジョグジャにつながるクワイ河の橋(2)」(2019年06月18日)

フウェー河は国境線ではない。だが河の向こう側の数キロ先にある国境線は明確な管理が
なされていないらしく、ビルマ兵が川岸まで来るらしい。
「今はビルマと言わないで、ミャンマーという名に変わったんじゃなかったかな?」
「名前に何の意味がありましょう?われわれタイ人にとってかれらはビルマなんですよ。」

国境を接し、隣り合っていて、同じアセアン加盟国であり、人間の顔かたちまでほとんど
見分けがつかないというのに、かれらタイとビルマは永遠の宿敵のようだ。かれらの不和
と軋轢は何世紀にも及ぶ。タイ人は肥沃な土地を得て暮らし、豊かな生産のおかげで美し
い都市をいくつも作った。その繁栄がビルマ人には我慢ならないものになっているそうだ。
両者の間に和睦は存在しないらしい。

何度も侵攻を繰り返したあげく、ビルマ軍は1767年に王都アユタヤを陥落させて滅ぼ
した。1780年、タイ人は反撃してビルマ人をタイ領内から追い払い、現在の国境線を
確保した。そのときの指導者がラマ1世として新王朝を開いたのだが、アユタヤはビルマ
に近すぎるためリスクが高いと判断してずっと東方のトンブリに王都を定めた。それが現
在のバンコクだそうだ。


フウェー河の鉄橋建設は1942年に東京で日本の内閣が決定した。ミッドウエー海戦で
日本の連合艦隊が空母4隻を失い、日本軍の攻勢の足が鈍り始めた時期に当たる。

インドへの進攻を計画していた日本軍は、海軍のインド洋作戦への期待が先細って行く中、
陸軍が単独でも初志貫徹を果たそうとして、タイからビルマを経由してインド国境に向か
う補給線の用意にかかった。

イギリスは1910年にビルマとタイを結ぶ鉄道線路の建設を計画したことがあった。し
かしジャングルや絶壁などの地形条件を検討した結果、その計画を放棄している。

「イギリス人の計画をわれわれが実現させるだけの話だ。」インド攻略に血道を上げた日
本の将軍たちはそう叫んだ、とユリアス・プール氏は記した。実態は、シンガポールとマ
ラヤから軍兵と兵器・資材をビルマの最前線へ移動させるのに、連合軍の攻撃から安全な
唯一のルートがそれだったのである。

こうして、タイのカンチャナブリからビルマのタンビュザヤッまで415キロの鉄道線路
敷設工事が計画された。順当な工期は5年間という話を大喝されて、1943年8月に完
成させろと命令されたが、日本人は銃を取って戦争しなければならない。肉体労働者をど
うすればよいのか?「敵軍、連合国の捕虜を使え。労務者にして勤労奉仕させろ!」ユリ
アス・プール氏の筆は踊る。

1942年6月以来、イギリス・オーストラリア・アメリカ・ニュージーランド・デンマ
ークなどの国籍を持つ捕虜6万1千人と、インドネシア・中国・インドなどから20万人
を超える民間人が労務者として徐々に建設現場に送り込まれてきた。[ 続く ]