「インドネシアで性転換手術(1)」(2019年06月18日) イスラムでLGBTが禁忌にされているのにはいくつかの要因がからまっている。この観 念の最大要因になっているのは、神と人間の位置付けに関する定義ではないかとわたしは 理解している。 どういうことかと言うと、神は全能で地上のあらゆるものごとを支配する決定者であり、 神が作り出した人間は自分に与えられた務めを定められた通りに実践しなければならない、 という定義だ。絶対者の神が与えた定めに服従するからこそ、神に隷属し奉仕する正しい 人間のあり方の実践になるのである。これに違反する人間は神を冒涜してこの世界に悪を もたらす手先であると見なされ、共同体社会から排除されるのが掟ではなかったろうか。 わたしはキリスト教も20世紀になるまで信徒を同じような観念の中に縛り付けていたと 思っているのだが、間違っているだろうか?もしそれが正しいなら、キリスト教社会は短 期間に急速な観念の変化を遂げたように見える。もちろん相変わらず変化していない保守 的な派閥が存在しているのは言うまでもないことだが。 人間の務めというのを具体的に表現するなら、成人した男と女が一対一で結びつき、家庭 を築いて性行為を営み、子供を設けて育成し、時の流れとともに起る世代交代に従うもの であるという定義になる。人間は地上に満ち溢れて神を讃えなければならない存在とされ ているのだ。 LとGというのは、男と男、女と女が結びつき、必然的に子供ができず、世代交代が成り 立たず、一代で家庭が消滅して行く、というものであるため、上述の神が与えた人間とし ての務めを果たしていないということになり、「神を畏れぬ不届き者」という判決が下さ れるのである。 Bはそのこと自体が問題なのでなく、その中に含まれている同性愛部分が神の命令に違背 しているということなのだ。そこでは、性行為を浪費しないで子供を作るという目的に集 中させるべきである、という判断が基盤を成している。 そこに出現する観念は性行為の目的を快楽でなく世代交代・子孫繁栄のためとする思想で あり、セックスは子供を産むために行う神への奉仕行動だという中世的観念に至ってしま う。[ 続く ]