「ジョグジャにつながるクワイ河の橋(終)」(2019年06月19日) ろくな道具もなく、風雨にさらされ、伝染病のリスクに覆われ、空腹を耐えて、数万の人 間がジャングルを切り開き、丘を削り、鉄道線路を敷くために道や橋を作った。急かされ た作業に、何ひとつ余裕は与えられなかった。 「われわれは毎日夜昼なしに働かされた。休日すら与えられなかった。あるとき木材運搬 のために象が数頭、送られてきた。ところがほどなくビルマ人象使いたちがコレラで全滅 したら、象は一頭残さず、すべてジャングルへ逃げてしまった。」マキーチャン大佐はそ う日記に書いている。 そのような悪条件の場所で、死はすべての者と親密になる。病気・飢餓・事故・災害は連 合軍捕虜1万6千人と10万を超える民間人労務者の生命を奪って行った。建設工事期間 と死者の数を単純計算すると、ひと月平均7,250人の死者が出たことになる。一日に なおせば240人であり、工事1キロ当たりでは280人だ。泰緬鉄道が死の鉄路とあだ 名されたのも不思議はあるまい。 工事は1943年10月25日に完了し、フウェー河鉄橋で開通式が行われた。その鉄橋 を作るための鉄骨を用意するのに、ヨグヤカルタ南西にあるパドカン製糖工場の建物が解 体されたのである。オランダ人がジャワ島に設けた鉄道線路も、泰緬鉄道・死の鉄路の一 部に加えられたようだ。 日本からは元より、他の占領地からにしても、工事用資材を安全に現場に届けることので きる可能性はその時期、蘭領東インドを除けばすべてが悲観に満ち満ちていたのである。 皮肉なことに、大勢の人間の生命と引き換えに作り上げられたこの鉄道を日本軍は、一年 半という短期間しか利用することができなかった。ジャングルに覆われていない河のど真 ん中を渡っている鉄橋は、上空からの爆撃に対してまるで素裸同然なのである。泰緬鉄道 を麻痺させようとしてイギリス軍用機は何回か爆撃を敢行し、1945年4月2日、ビル ・ヘンダーソン中佐の乗るB−24イギリス軍爆撃機が橋脚3本を破壊して列車の通行を 不能にした。 1957年にデビッド・リーン監督が、ウイリアム・ホールデン、アレック・ギネス、ジ ャック・ホーキンスらそうそうたる顔ぶれのスターを起用して、映画The Bridge on The River Kwaiを制作した。原作はフランス人作家ピエール・ブールの書いたフィクションス トーリー。 この作品は大ヒットしたが、オスカーの8部門を独占という掛け声は残念ながらひとつ欠 けて7部門に終わった。日本人ハリウッドスター早川雪洲氏の最優秀助演賞が授賞できな かったのだそうだ。 いま、フウェー河鉄橋は修復されて開通式が行われたころの形に復元されている。残骸の まま雨ざらしにして放置するようなことを、タイ政府はしていないのだ。 何十万人という多数の外国人が死の鉄路に関わって生命を落とした。ビルマ人もそこに駆 り出されたことはマキーチャン大佐の日記が示しているが、タイ人の生命がそこに注ぎ込 まれたような話を見つけ出すことができない。大日本帝国の友好国となったタイに対する 強制の度合い、あるいは形が違っていたということなのかもしれない。 死の鉄路沿いに葬られた連合国軍人の捕虜の死に、かれらの遺族が愛する者の最期の地を たずねてやってくる。フウェー河鉄橋はそのシンボルなのである。毎日、数百人の外国人 がこの橋を見にやって来るとガイド嬢は語った。タイの観光産業にとって泰緬鉄道は、そ してそのシンボルたるこの橋は、大きな意味を持つ観光資源なのだ。歴史がもたらしたこ の皮肉な現実はユリアス・プール氏の胸中にどのような思いを残したのだろうか? 軍人捕虜の人数の数倍に達するインドネシアやマラヤ、そしてインドシナから動員された 民間人労務者の遺族は、記録らしい記録も残されることなく線路近くに埋められた愛する 者の死を、いったいどのように受け止めればよいのだろうか?[ 完 ]