「ジョグジャのゴアジュパン(前)」(2019年06月20日)

日本軍がオランダ領東インドを占領したあと、ヨグヤカルタのスルタンであるハムンクブ
ウォノ九世は日本軍政に協力的だった。軍政監部はジョクジャカルタのスルタンとスラカ
ルタのススフナンを侯とし、その王国領を侯地として、州と同格の待遇を与えた。

ヨグヤカルタとスラカルタのみならず、全土において現地行政体系をオランダ植民地体制
のまま据え置くことが支配体制の引き継ぎを容易にさせる最善の手段だったのは疑いある
まい。

州もしくは侯地の下の行政区画は県[ken]>郡[gun]>村[son]>区[ku]と改称されたが、日
本軍政は更に細かく>字[aza](RW)>組[kumi](RT=隣組)を設けて住民生活を細部
に至るまで統制する仕組みを作った。

RT/RWの制度はインドネシア民族の政治生活感覚にきわめてフィットしたようで、今
日に至るもいまだにそのシステムが継続している。
当時の行政区画をまとめるとこうなる。
州 Sju Karesidenan, 州長 Sjutjo Residen
市 Sji Kotapraja, 市長 Sjitjo Walikota
県 Ken Kabupaten, 県長 Kentjo Bupati
郡 Gun Kawedanan/Distrik, 郡長 Guntjo Wedana
村 Son Kecamatan, 村長 Sontjo Camat
区 Ku Kelurahan/Desa, 区長 Kutjo Lurah/Kepala Desa
字 Aza RW, 字長 Azatjo Ketua RW
組 Kumi RT, 組長 Kumitjo Ketua RT


1942年半ばに行われた珊瑚海海戦〜ミッドウエー海戦というエポックメーキングな戦
いがそれまで好調だった日本軍の進撃の足を緩めさせ、戦況の変化がもたらす悲観的な意
識が占領地区に拡大して行った。

1943年後半には米軍主力の連合軍がニューギニア戦線で主導権を握り、東京へ向けて
の大進撃が始まった。日本軍は占領地死守の方針を固めて、占領地原住民の動員に動き出
すことになる。PETAが創設され、各地で洞窟陣地を作るための労働力調達が進められ
た。インドネシアの全国各地にゴアジュパンgoa Jepangと呼ばれる洞窟跡がある。ゴアジ
ュパンはたいていがそんな歴史の流れの中で作られたものであるようだ。

ジョクジャカルタ侯地では、パランクスモParangkusumo海岸に近いバントゥル県プンドン
Pundong郡スロハルジョSeloharjo村のムラギMrangi山に洞窟陣地が作られることになり、
合計19の陣地出入口が作られた。ここに要塞を築けば、南海岸部に上陸してくる敵軍
を邀撃するのに絶好の位置にあり、海岸線の監視も行いやすい。

日本軍はそれだけでなく、プンドン郡サンデンSandenに兵舎を建て、更にムラピ火山の
麓に位置するカリウランKaliurangにもゴアジュパンを作って、ジョクジャカルタ侯地の
防衛態勢を強化した。

その土木工事のために侯地民が強制的に駆り出された。ムラギの洞窟陣地作りには現場周
辺の全地域から毎日5百人の住民が労務者として集められ、厳しい肉体労働に従事させら
れた。それはもちろん無料奉仕でなく、賃金は与えられたものの、ほとんどが農民である
地元住民の農作業は頻繁に穴があくことになり、おまけに少額の賃金はかえってかれらの
暮らしを逼迫させた、というのが後世のインドネシア人学者たちの定評になっている。
[ 続く ]