「ジョグジャのゴアジュパン(後)」(2019年06月21日)

プンドン郡はオパッ川Kali Opakの河口に位置する肥沃な地であり、農業に適している。
地元民は米をはじめ食用植物の栽培の傍ら、プンドン製糖工場に納めるためのサトウキビ
も栽培した。プンドン製糖工場も周辺地域に、住民が獲り入れたサトウキビを工場内に運
び込むためのロリーを引く小型鉄道を設けていたが、その線路は日本軍が取り外してタイ
に送ったそうだ。

日本軍が必要とした労働力をまかなうための原住民の徴用は最初、有給のボランティア形
態で始まったようで、決して強制労働方式でスタートしたわけではない。だが需要の激増
と余裕のない工期、体力に優れた原住民の減少などの状況の変化が、インドネシア人の歴
史体験の中に大きな傷を残すことになった。

戦況の変化による日本軍の追い詰められた意識が、防衛態勢強化の土木工事を絶対主義で
覆うことになる。労務者徴用は行政システムを通じての人数割当方式で行われた。隣組で
監督されている原住民にとって逃げ隠れの余地はゼロだったにちがいない。男も女も、そ
して体力的に可能と見られた少年さえもが、ムラギの山頂に登らざるをえなかった。土木
作業は午前8時に開始され、12時に一時間休憩があり、13時から16時まで働いてや
っと帰宅することができた。肉体労働者は25セン、木材加工人は50セン、現場監督人
は75セン、監督長は1ルピアが一日の日当だった。25センから1センが税金として差
し引かれた。

ジョクジャカルタ侯地の住民はまだ幸運だったと言えるだろう。ヨグヤカルタ侯ハムンク
ブウォノ九世が日本軍に対し、領民の労務者徴用は領内での勤労だけにしてくれと依頼し
て、それが受け入れられたからだ。他の州で徴用された労務者は、どこで何をさせられる
のかわからないまま、インドネシア国内はもとより、タイ〜ビルマからインドシナにまで
送り出されて行ったのだから。

そんな労務者が賃金はもらえることになってはいても、賃金を支払う会計係と監督人たち
の悪だくみによって、金額を減らされ、あるいは遅配と嘘をつかれて何ももらえないとい
った例は山のように起こった。

受給バランスによって物品価格は大きく揺れ動く。元々、かつかつの賃金レベルだから、
生活必須消費物資の価格暴騰をカバーする余裕など皆無だ。飢餓と栄養不足に見舞われ、
体力を消耗させられ、生きる屍と化して行く労務者たちの悲惨な運命が、インドネシア人
の頭脳に「労務者」という日本語を日本軍が行った強制労働システム及びその被害者とい
う語義で定着させることになった。


インドネシアを占領した日本軍がその三年半の占領期間中にインドネシア国民の意識内に
残した三大悪は、憲兵隊の拷問、従軍慰安婦、そして労務者だったと言われている。中で
も従軍慰安婦と労務者は、ローカルレベルで密かに行っていたなら、それ以前からあらゆ
る民族が行ってきたのと変わらないことであるにもかかわらず、日本人が組織立てて大規
模に行ったためにこのような結果を招いたのではないかというのがわたしの個人的な感想
だ。

効率効果を求める頭の良さと組織力はあっても、国際的な倫理感覚がどこかでズレている
この民族の幸不幸がそこに象徴されているように、わたしには思えてならない。[ 完 ]