「スマトラ死の鉄路(1)」(2019年06月25日)

泰緬鉄道とそっくりな話がスマトラ島にもある。

スマトラ島の鉄道網は州別に一部地域の中で営まれているものがほとんどで、州境を越え
てつながっているものはあまりなく、ましてやトランススマトラ鉄道網というのもインド
ネシア国鉄の計画にあるだけで、汽車でスマトラ島を駆け巡るような話は夢のまた夢にな
っている。

鉄道網がもっとも稠密なのは西スマトラ州だ。オランダ人がスマトラのパリと綽名したブ
キッティンギBukittinggiがあり、2億トンと推定された高カロリー石炭を大量に埋蔵して
いるサワルントSawahluntoがあり、豊かな天然資源を誇るミナンカバウの高原地帯があっ
て、パダンの外港トゥルッバユルTeluk Bayur(オランダ時代の名称はエンマハーフェン
Emmahaven)から石炭をはじめ種々の物産を積み出すために、西スマトラ州の東寄り、
スマトラ島の脊椎山脈に当たるブキッバリサンBukit Barisanの中にあるサワルントからイ
ンド洋岸のトウルッバユルまでの155キロを植民地時代から貨物列車が走っていた。

オランダ植民地政庁が行き渡らせた西スマトラ州の鉄道網は、最大の目的が現地で得られ
る資源や物産を港まで運ぶことだったのだが、もちろん人間を運ぶことも同時に行った。
日曜日は貨車が連結されずに客車だけで走ったが、車内は乗客で一杯だったそうだ。


1888年から1893年までかかったその鉄道工事はまず中心地となるパダンから開始
され、内陸部のブキッバリサンに向けて進められて行った。現在まだ使用されているその
路線は、パダンから海岸線と並行してルブッアルンLubuk Alungに至るとまっすぐ北上し
てシチンチンSicincinに達し、そこから内陸部のパダンパンジャンPadang Panjangに向か
う。パダン〜パダンパンジャン間の運行開始は1891年だった。

パダンパンジャンから線路は、もっと北にあるブキッティンギと、南東の方角にずっと離
れたサワルントへの二方向に分岐する。パダンパンジャンから19キロ離れたブキッティ
ンギへは1891年中に延長された。

パダンパンジャンの南東側にはシンカラッSIngkarak湖があり、鉄道線路は湖東岸を通っ
てソロッSolokの町に達すると東に向きを変え、ムアラカラバンMuara Kalabanに向かう。

パダンパンジャンからソロッまでの53キロは1892年7月に完成し、ソロッ〜ムアラ
カラバン23キロはその年内につながった。しかし、ムアラカラバン〜サワルントは18
94年に稼働が開始されている。

列車がサワルントへ入るようになるまで、炭鉱からの石炭運び出しは馬や水牛の引く車で
急坂を降り、ムアラカラバンに待機している石炭列車に積み込まれた。ムアラカラバン〜
サワルント間のわずか4キロの鉄道工事は2年の歳月を必要としたのである。工事の最大
の難関は岩をくり抜く全長835メートルのトンネル工事だった。[ 続く ]