「スマトラ死の鉄路(5)」(2019年07月01日)

1943年3月から、ジャワ島で徴用された労務者の集団がプカンバルに到着するように
なった。工事はまずプカンバル鉄道駅操車場の建設からスタートした。鉄道線路敷設工事
着工は1943年9月となっている。

線路や枕木などの資材は北スマトラ州のデリー鉄道会社Deli Spoorweg Maatschappijから
運んできたものだったが、東ジャワ州マランの鉄道会社Malang Stoomtram Maatschappij
の名前が入った資材を目にした労務者の証言もある。線路の上を走らせる機関車もデリー
から3台運んできた。


工事は1945年8月15日に完了したという表現をさまざまな記事に見出すのだが、諸
事情を勘案するとどうやら、大日本帝国の無条件降伏によって工事作業の進行がその日終
焉を迎えたということのようだ。

線路敷設は完了していてプカンバルとムアロはつながっていたが、工事作業のすべてが終
わっていたわけではなかったのだろう。そんな状況だったから、列車が走ることくらいは
少なくとも可能だったにちがいない。

工事期間中に資材輸送は元より、試運転などで線路上を列車が走ることは随時行われてい
たものの、究極目標であるサワルントの石炭をプカンバルまで運ぶことは一度も行われな
いまま、すべてが終わってしまった。

反対にこの鉄道は、抑留者を西スマトラに戻すのに大車輪の活躍をしたとのことだ。そし
てそんな戦争の事後処理が済むと、誰一人としてその鉄路に目を向ける行政者と業界者は
いなくなり、長い年月のうちにジャングルの中に呑み込まれて行った。

各地域地域で地元首長が線路などの資材を取り外して売却し、3台あった機関車も1台を
残して行方不明となった。スクラップにされた可能性も小さくない。


プカンバル市内には機関車という名前の通りJalan Lokomotifがある。死の鉄路を除いて
鉄道線路がまったくないプカンバル市にとっては、奇妙な話だ。ひょっとしたら、そこが
操車場の跡地であり、3台の機関車がそこに置かれていたのかもしれない。

それとは別に、スルタンシャリフカシム二世空港に近いシンパンティガ地区に、機関車が
一台、コンクリート台座の上に置かれて記念碑になっている場所がある。1892年にド
イツで作られたC3322型機関車がそれであり、日本軍がデリーから運んできた3台の
うちのひとつらしい。記念碑は1956年に建てられた。[ 続く ]