「津波とアチェの歴史(1)」(2019年07月08日)

長い歴史の中で、地の利を生かしたアチェは独特の勢力を築き上げてきた。盛衰は繰り返
されて、スマトラ島の半分以上に君臨した時代もある。蘭領東インド植民地内で1904
年までアチェスルタン国はプリブミの独立した王国としての地位を維持し続けた。インド
ネシアがオランダに350年間領有されたという表現はインドネシア人が被害者意識をこ
とさら強調したいときに使う修辞であり、史的事実ではない。

19世紀末の近付いてきた1873年になってオランダはやっとアチェを征服する意欲に
駆られた。1824年に涙を呑んでマラッカをイギリスに譲り、ベンクーレンからイギリ
ス人を追い払ってスマトラ島全域とマラヤ半島の完璧な領土的住み分けを実現させた英蘭
協約の中に、両国はアチェ王国の独立を侵さないという一項があったため、アチェは両国
のにらみ合いの下に保護されていたのである。

ところがアチェ王国の属領になっていた北スマトラ東岸のデリー、アサハン、ランカッ、
スルダンの諸地域を1858年にオランダが割譲させたことから、イギリスはオランダの
協約違反を言い立ててアチェを使嗾し、反オランダ抗争に向かわせた。

状況は悪化の一途をたどり、オランダはアチェを力で屈服させて征服することを決意した。
スマトラに再び足場を築こうとしているイギリスの腹の内は見えすいている。アチェを完
璧にオランダの支配下に置かなければ、その代償は高い物につくだろう。長い歳月と巨額
の戦費を惜しまずにつぎ込んで遂行されたアチェ戦争は、オランダにとって避けて通れな
い道だったにちがいない。

だがオランダがやってくるはるか以前のアチェでも、局地的な盛衰は言うまでもなく起こ
った。その盛衰の中に自然災害を原因としたものも存在した。津波だ。


バンダルアチェダルッサラムBandar Aceh Darussalam を都にしたアチェスルタン国の建
国史では、西暦1507年9月8日に即位したスルタンのアリ・ムガヤッ・シャーが王国
の初代スルタンとされている。しかしバンダルアチェダルッサラムをアリ・ムガヤッ・シ
ャーが開いたのは西暦1496年であり、当時その地はラムリLamuri王国の領地だった。

ラムリという地名は現在ラムレLamrehという名で残っており、アチェブサール県ムスジッ
ラヤ郡ラムレ村が今の所在地だ。歴史の舞台でラムリはLamriやLambriと綴られることも
あり、また中国の史書には藍無里Lan-wu-liや藍里  Lan-liあるいは南没理Lan-mu-liとい
った表記で登場する。1225年ごろに趙汝カツが書いた諸蕃志には蘭無里もしくは藍無
里と書かれていた。

藍無里国はスマトラ島北西の亜(正確には口編)斉Achin岬付近にある国で、航行船舶が
必ず寄港する要港にあたり、ペルシャ人はかつてスマトラの全島をAl-Ramniと呼んでいた
という解説も述べられている。[ 続く ]