「津波とアチェの歴史(終)」(2019年07月10日)

1394年、巨大津波がスマトラ島北端部を襲った。南洋理工大学シンガポール地球観測
センターが行ったその状況に関する発掘調査で、11世紀から14世紀までに作られた陶
器の破片数千点や5千にのぼる石彫の墓標などの分布状況から、40キロに渡る海岸線に
あった9つの居住地区が壊滅したことが判明した。ただ標高20メートルを越える台地の
上にあったラムリの王都だけが被害を免れた。その被害の大きさから、1394年の津波
は2004年にアチェ州のインド洋に面した海岸線を襲ったものと同規模だったと推測さ
れている。

地球観測センターの調査に先立って、スマトラ島北端部が何度も激しい津波に襲われてい
ることを示唆する指摘は出されていた。2008年には、1300年代と1500年代に
津波が起こったことを示す堆積層が見つかり、2010年にはその仮説の地質学的裏付け
となる調査結果が発表されて、二度の津波は1394年と1450年だったことが定説に
なっている。

鄭和は1405年、1408年、1416年に喃渤利Lambri王国を訪問したと言われてい
る。その際に献上した陶器の破片と思われるものが、地球観測センターの発掘調査で見つ
かっている。


マラッカ海峡の出入口に位置するラムリは順調な発展を続けて、世界中にその名を知られ
るようになったものの、1450年の津波で再び民力は地に落ちた。ただし1450年の
津波は1394年のものに比べて小さかったようだ。

ラムリ王国は1550年ごろに歴史の幕を閉じた。その威勢に取って代わったのが、14
96年以来旭日のごとくのし上がって来たアチェダルッサラムスルタン国だった。155
0〜1650年に作られた陶器の破片はバンダルアチェダルッサラムから大量に出土して
いる一方で、ラムレ村地区にはまったく埋まっていなかった事実が、王権の完全な移転を
物語っている。

1511年のポルトガル人によるマラッカ征服という情勢の変化も、王権の移転を妥当な
ものにする方向に力を添えたにちがいない。マラッカを根拠地にしたポルトガル人は海峡
全域をわが物として通行船舶から税課金を取り立て、イスラム商人の船には特に厳しい扱
いを加えたのだから。

おかげでイスラム商船はスマトラ島インド洋岸を通ってポルトガル人の支配するマラッカ
海峡を避けるようになる。ジャワ海への出入りはスンダ海峡を通ればよい。その航路の最
適な位置にバンダアチェダルッサラム港があったのだ。そこからインド洋を西航しようと
する船が、あるいは西からやってきた船がインド洋をスンダ海峡目指して南下しようとす
るとき、わざわざもっと東のラムリに向かうはずがあるまい。ラムリの没落は目に見えて
いた。


アチェダルッサラムスルタン国が力をつけてスマトラ島の半分以上を支配した時代に、津
波は多分スマトラ島の別の地方を襲っていたのだろう。アチェダルッサラムはスマトラ島
最大の強国として長期間広範囲な地域に君臨した。海岸に作られたその本拠地が国力を損
なう津波の襲来から免れたのは幸運以外のなにものでもなかったと言いうるにちがいない。
そしてそれは、2004年の12月になってやっと破壊の牙をアチェに突き立てたのであ
る。

2004年の津波で壊滅した海岸地区住民は、一定期間を過ぎてからまた元の居住地区に
戻って家を再建し、仕事を再開し、経済活動を復活させている。地元政府が海岸線から5
百メートル以内を非居住地区にして津波による潰滅の再発を防ごうと計画したにもかかわ
らず、民衆はいつやってくるかわからない津波の恐怖にすこしもたじろがない姿勢を示し
た。1394年からしばらくして、ラムリ王国の海岸部で起こったのと同じことがまた繰
り返されているのである。[ 完 ]