「ロムサ(3)」(2019年07月11日) インドネシア人は/sha/という綴りをどう発音するか?英語から取り込まれてインドネシ ア語になった単語の例をあげてみれば、明白だ。 finish ⇒ finis dashboard ⇒ dasbor shift ⇒ sif smash ⇒ smes インドネシア語として認定されていないものの、インドネシア人が日常生活で頻繁に使っ ているcash ⇒ kesの話は下でご覧いただけます。 http://indojoho.ciao.jp/2016/1121_2.htm ということで、労務者がロムサという単語でインドネシア語の語彙になっている背景はそ んなところにある。 日本軍は戦争遂行に必要とされる労働力を占領地の原住民で満たそうとした。最初は志願 者を募った。東インドでは陸海軍が労務者の待遇を話し合い、一日0.5フローリンで、 毎月家族への送金分として3フローリンが天引きされるということが合意された。しかし 泰緬鉄道で陸軍は一日0.7〜1.0フローリンを賃金としたようだが、一律均等の保証 など何もなかった時代だから、無報酬者がいなかったとも思えない。 泰緬鉄道工事から生還した労務者のひとりは、区長が「ニッポンに従えばよい。」と言っ たので応募したら、チレボンで働くのだと言われた、と回顧談を語った。ところが何と思 いもよらず、かれはタイまで運ばれて行ったのである。現場では作業者を統括する監督人 の仕事を与えられ、一日2センの報酬をもらった。 シンガポールを経由してタイへ運ばれて行く間、労務者は貨車に詰め込まれて過酷な扱い を受け、あるときは1千5百人の集団が目的地に着く時には数百人になっていたこともあ るそうだ。 工事現場での待遇も悲惨なものだった。病気や怪我をした労務者に対する医療はほんの口 先ばかりだったそうで、あたかも傷病人の世話に金をかけるよりは新たに労務者を連れて 来るほうが安上がりだというコンセプトを垣間見させるようなものだったらしい。ジャワ 島から泰緬鉄道に連れて来られたジャワ人労務者は20〜50万人と推測され、終戦時に 生き残っていた者は7万人くらいだったという証言もある。 労務者キャンプから脱走した者も数知れない。ジャングルの中には猛獣や毒を持つ生き物 がおり、ジャングルの中で迷ってしまえば餓死渇死が待ち受けている。障害を克服して逃 げ延びたジャワ人もたくさんいて、かれらの中にはマレーシアやタイの田舎で地元女性と 家庭を持ち、そこの土となったひとびともいる。 労務者というのは、日本軍が言う労働兵士などとはまったく異なる、生命の保証のない強 制労働者だという実態が原住民の間に知れ渡ると、志願者は激減した。だが軍の需要は満 たされなければならない。1944年には労務者徴募を専業にする部門が軍政機構の中に 設けられた。こうして行政機構を通じての住民の割当てへとむかうようになる。[ 続く ]