「老人たち(1)」(2019年07月24日)

インドネシアで停年は老人という年齢階層区分と同期している。60歳になれば生理学的
にストレスに対する均衡を維持するのが困難とされているため、雇用者の下で勤労するた
めの条件が不足することになる。

自分がいつかそんな状態になることを、若さ満ち溢れている時期には思いも及ばないのが
普通であり、その偽らざる心境をポール・サイモンが「How terribly strange to be seventy」
と自作Old Friendsに述べたのではなかったろうか。かれはそのとき27歳くらいだったよ
うだ。


停年は種々のプレッシャーへの入り口であると一般のインドネシア人は考えていて、非生
産的な生活を続けるために病気に罹りがちになることをその因果関係と見ている。

まるでポストパワーシンドロームのカリカチュアそのものに見えるその観念は、世間ある
いは職場で年長者ほど与えられる尊敬や畏敬が強まることに合わせた組織内での地位や職
位の向上が依然として一般的な社会文化と、夫や父親を生身の一個の人間として遇する傾
向を持つ家庭内での本人に対する風当たりの現実の間で本人が感じる落差に由来するもの
という気がわたしにはするのだが、そうなると本人の主体性は消え失せて、周囲の環境に
対する依存性に塗りつぶされた構図になってしまう。

だからそれは極論だとしても、大勢の個人はその主体性と依存性のはざまのどこかにいる
のが現実なのだろう。停年になったから、これまで活躍していた舞台から降ろされて自分
自身の価値を見出す場を失うがために抱くプレッシャーがそれであるのなら、そのひとの
職業人生は本人にとってあまりにも価値の大きすぎるものだったのではあるまいか。

反対に、それほどうだつの上がらない職業人生を送って来た人間にとっては、「さあ、こ
れから自分のしたい活動をやりまくるぞ。」という考えで再スタートする人生に降りかか
って来るプレッシャーは別種のものであり、且つその重みもわたしにはまるで異なるよう
に思える。

しょせん人生というのはゼロサムであると考えるなら、老齢者が抱くプレッシャーは後者
のほうがよいのではあるまいか。非生産的になるかならないかは本人の考え次第なのであ
り、老齢者に対して生産的な活動を社会自体が期待していないのだから、本人が生産的だ
と思うならそれできっと十分なのだろう。[ 続く ]