「アムラン要塞(前)」(2019年08月07日)

北スラウェシ州マナドからトランススラウェシ街道を一路南に向けて68キロ走ると、南
ミナハサ県アムラン郡アムランの町に着く。海岸線に沿って長く伸びたアムランの町の中
央寄りに大きいアムラン市場がある。市場の周辺道路も物売りでいっぱいだ。

そのアムラン市場からほんの数十メートルという目と鼻の先に巨大な石造りの建造物がう
ずくまっている。鉄製フェンスに囲まれた建造物の大きな入り口にはアムラン要塞Benteng 
Amurangと記されている。ポルトガル要塞と地元民が呼んでいるのがこれだ。

コンパス紙記者が門の前をうろついていると、道端商人のひとりが話しかけて来た。「あ
んた、中を見たいのかい?サクラマートへ行ってオジェッ運転手を探しな。名前はベルナ
ール・ルモンドルだ。」

トランススラウェシ街道沿いのサクラマートでベルナール氏55歳は客待ちをしていた。
記者が用件を話すと、ベルナール氏は家にゲストブックを取りに戻った。かれは1996
年以来、アムラン要塞の番人兼ガイドをしている。

毎日午前中はアムラン要塞で掃除や整理を行い、それからオジェッ仕事をしているそうだ。
1512年にポルトガル人が建てたアムラン要塞の見学客はめったにないらしい。要塞建
設を命じたのはポルトガル船隊指揮官フランシスコ・ダ・サアFrancisco da Saだった。船
隊はスパイスを求めてアムランの海岸に上陸し、この地域を支配下に置いた。今残ってい
る建造物はDの文字の形をしており、縦棒が30メートル、膨らんだ半円の径は10メー
トルで、450平米の土地に330平米の建造物が載っている格好だ。

半円はそこからおよそ百メートル離れた海岸線にまっすぐ向いている。要塞は最初、西向
きにもっと長く作られていて、1キロ余り離れたカワンコアンバワKawangkoan Bawah町に
達していたそうだ。城壁が築かれていたのだろうか。スラウェシ海からこの地域にやって
くる敵の侵入を防ぐことを目的にしていたのは間違いあるまい。

要塞の建設にはサンゴ礁が使われ、サンゴ礁を粉砕してからスラウェシ島原生種の鳥マレ
オmaleoの卵で固めたものを積み重ねた。そして海岸に港が作られ、マルク諸島のテルナ
ーテ、バンダ、アンボンなどを結ぶ通商ルートに乗ってスパイスやコプラが積み出された。

1600年にフィリピンのスペイン人がスパイスを求めてこのスラウェシ島北端の地区に
進出し、マナドに拠点を置いた。ミナハサの支配は優勢なスペイン人の手に握られた。ミ
ナハサの諸種族が1645年にスペイン人を追い払うのに成功したものの、スペイン人は
またすぐに戻ってきて支配権を復活させている。[ 続く ]