「ドゥイッ(1)」(2019年08月19日)

インドネシア人は「金銭・お金」のことをウアンuangと言わずにドゥイッduitと言うこと
がある。

ドゥイッというのは英語のdo itを語源にしており、インドネシア語の中に取り込まれて
お金の意味に使われるようになった。外国人がやってきて、札束をインドネシア人の眼前
に見せつけて「やれ。do it!」と言うと、インドネシア人は理非曲直などお構いなしに、
どんな汚れ仕事でも何でもした。こうしてdo itがお金の意味で定着し、インドネシア語
になったのだ。

そういう与太話をするひとがあるが、騙されてはいけない。インドネシア人の金に目がな
い拝金主義的精神性を巧みに衝いて作られた話ではあるものの、想定されているようなシ
ーンは現代インドネシアからちょっと時代をさかのぼれば、まず起こりえなかったような
内容に見える。


インドネシアの歴史を見る限り、「外国語とは英語なり」で事足りている民族の文化とは
異なり、インドネシア民族にとって外国語というのは十指で折りつくせないものであり、
おまけに遠い過去から英語はマイナー外国語のひとつでしかなかったのである。つまりそ
の話の創作者はduitというインドネシア語を英語に結び付けることで歴史的要因を軽視す
る失策を犯したと言うことができよう。

外国から入ってきたひとつの言語表現がその国の国民にネイティブ表現のように使われる
ようになるために、どのくらいの歳月が必要とされるだろうか?十年二十年で済むはずは
ないだろう。言語の土着化は流行を乗り越えた場で進行するもののはずだからだ。十年二
十年はまだまだ流行というサイクルに乗っているものと見ておかしくあるまい。

だから上の与太話に対してわたしは、歴史が持つ時間の奥行きを把握できていない人間の
創作話だろうという印象を最初から受けた。これはあくまでも、インドネシア人の拝金主
義的精神性を揶揄し皮肉るジョークなのである。話の内容は真実ではない。


日本語では「金に目がない」という表現をするが、インドネシア語では類似表現として
mata duitanという熟語が使われる。あらゆるものが金、金、金。金でないものに向ける
関心などない、という精神傾向を物語る言葉がこの金銭睨み目付きmata duitanだ。
mata duitanはインドネシア社会で強い負の価値を持っており、下卑た蔑むべき人間性と
して忌避される。ドゥイッとウアンは同義語だが、mata uanganという置き換えはインド
ネシア語の中に存在しない。

ちなみにインドネシア語のmata duitanはジャワ語でmata dhuwitenと表記され、まったく
同じ意味を表している。dhuwitはゴコngokoでインドネシア語のuangの意味に使われ、ク
ロモkramaではdhuwitという語を使わずにuangやhartaという語を使う。

それを見る限り、ジャワ人にとってdhuwitは高尚な響きを持たない単語であったことが推
測され、同時にduitがジャワ語からインドネシア語に入ったものでもないことをわれわれ
は感じ取るのである。[ 続く ]