「ルピア(2)」(2019年08月27日)

日本軍が進攻する前の状態に戻そうとする連合軍がオランダ植民地支配の復活を図る蘭領
東インド植民地文民政府(NICA)にインドネシアを引き渡し、NICAの強引な再植
民地化とそれをさせまいとする共和国の間での戦争状態が、通貨というものに関してたい
へんに複雑な状況を出現させたのがその歴史だ。


日本軍政はインドネシアへの進攻に先立って計画していた金種を現地に流通させた。
1Cent, 5 Cent, 10 Cent, 1/2 Gulden, 1 Gulden, 5 Gulden, 10 Guldenがそれで、すべ
てが紙幣であり、紙幣にはオランダ語でDe Japansche Regeering(日本政府)と大書され、
1/2 Gulden以上の金種にはDe Japansche Regeering Betaalt Aan Toonder(日本政府は持
ち主に支払う)という意味の保証文言が入っていた。それらは1942年にジャカルタ印
刷工場で作られた。

その中の1/2 Guldenは額面としてHALF GULDENと大書されていたが、オランダ人専門家は
半フルデンという額面表記について、EEN HALVEというのが妥当な表現であり、日本人の
作った翻訳版オランダ紙幣の面白さという趣をその現象に見ていたそうだ。

新聞に発表された軍政監部の布告には、1942年3月11日から日本軍政統治エリアで
は日本政府発行のフルデン紙幣と従来オランダ植民地政庁の発行してきたフルデンが通用
することが表明されている。日本軍政はその統治期間中に一度もオランダ植民地政庁発行
通貨の流通を禁止したことがない。最初は軍政監部が出していたそのフルデン紙幣は、1
943年4月に南方開発銀行が業務を引き継いだ。


翌1943年、南方開発銀行はジャカルタ印刷工場で造幣し、新紙幣額面の通貨単位には
ルピアが使われた。金種は1/2 Roepiah, 1 Roepiah, 5 Roepiah, 10 Roepiah, 100 Roe-
piahの5種類で、今度はオランダ語を一切やめてDai Nippon Teikoku Seihuという文字が
De Japansche Regeeringに取って代わった。

続く1944年9月、ジャカルタ印刷工場は三度目の紙幣発行を行った。前回と同じ金種
と同じ表記は継続されたが、Dai Nippon Teikoku Seihuという文字がインドネシア語の
Pemerintah Dai Nippon Teikokuに置き換えられた。このときは1千ルピア紙幣が用意さ
れたが、流通される前に終戦を迎えたとのことだ。

また10、5、1センのアルミニウムコインも発行されたが、使われたのは特定一部地域
に限られていたそうだ。大量のコインを国中にばらまくエネルギーはもうなかったのかも
しれない。


こうして終戦時には、日本軍政がインドネシア社会に流通させた三種類の紙幣が入り混じ
って使われていたのである。1945年半ばには、その三種類の紙幣がジャワ島に24億
フルデン、スマトラ島に14億フルデン、またカリマンタン島とスラウェシ島にもっと少
ない量が流通していた。その中には、日本軍がジャワ銀行内で見つけた蘭領東インド政府
発行の未流通紙幣8千7百万フルデンも含まれていたと言われている。同じく2千万フル
デン相当のコインも見つかったが、それは市場に流通させることなく、どこかに姿を消し
たそうだ。[ 続く ]