「ルピア(4)」(2019年08月29日) ジャワ銀行は1828年に蘭領東インド植民地政庁が設立した通貨の発行と流通管理のた めの銀行で、日本軍政期中はオランダ・イギリス・中国などの銀行と共に解体を命じられ たため、対外業務は停止した。戦後、戻って来たNICAが業務を再開させたが、194 9年のインドネシア共和国完全独立によってインドネシア政府が接収し、中央銀行業務を 行わさせた。そして1953年7月1日からインドネシア銀行として名実ともに公式の国 家機関になった。今ジャカルタコタ駅の向かいにあってインドネシア銀行博物館としてそ の壮麗な姿を顕示している建物が、そのジャワ銀行本店だったのである。 一方、蘭領東インド政府と大日本帝国はインドネシア共和国発足前の行政主体者であり、 それらが発行した通貨は民衆の暮らしに深く入り込んでいるため、新政府が認めなければ 国民生活に大混乱が起こる。しかしウアンNICAだけは意味合いが違っていた。共和国 政府がそれを承認できなかったのは理の当然だったはずだ。 大日本帝国発行のルピア紙幣を民衆は東インドルピアRupiah Hindia Belandaと呼び、独 立宣言後にジャワ銀行が臨時に発行したルピア紙幣を民衆はジャワルピアRupiah Jawaと 呼んだ。 共和国政府がはじめて行った通貨発行は1946年10月30日のことで、額面はルピア 表記になっているのだが、共和国政府発行のこの通貨をインドネシア人はインドネシア共 和国通貨(ORI= Oeang Republik Indonesia)と呼んだ。ORI発行に伴って、ORI 以外の通貨はすべて流通が禁止された。 大日本帝国が出したルピア紙幣と区別する必要があったためだろう。共和国政府発行のル ピア紙幣をそのままの名前で呼ぶことができず、ORIという名称で呼ばなければならな い事情があったということだ。 ORI1ルピアは黄金0.5グラム相当と定められ、大日本帝国ルピアとの交換レートは ジャワ島で1対50、スマトラ島で1対100とされた。 蘭領東インド植民地政庁が発行したNederlands-Indische gulden(蘭領東インドフルデン) の体系をそのままルピア/センの体系に移し替えるのがORI発行の意図だったから、1 ルピア=1フルデンという価値比率が想定されたようだが、そうはうまく進展しなかった ようだ。ルピアとフルデンのインフレに対する強さが同一になるはずもない。 オランダは元々、本国のフルデン体系と蘭領東インドフルデン体系を1対1の価値比率と 定めていたから、第二次大戦後オランダ本国がフルデンの対米ドル交換レートを1.88 /USDから2.65/USDに切り下げたので、ルピアの対米ドル交換レートは2.6 5ルピアで始まったと言うことができそうだ。 もちろんそのころ、インドネシア共和国政府もルピア通貨も国際社会で認められていなか ったのだから、そのようなマネーチェンジが行われることはまずなかっただろう。これは あくまでも机上の空論である。[ 続く ]