「ウアンNICAの役割」(2019年09月16日)

1946年3月6日、AFNEI軍司令官モンタギュー・ストップフォード中将Sir Mon-
tague Stopfordは蘭領東インドで流通している大日本帝国ルピア紙幣とNICAルピア紙
幣(ウアンNICA)との交換比率を、1日本ルピアはウアンNICAの3センであると
定めた。ウアンNICA1ルピアに対して、日本ルピアはその3%の価値を持つという評
価だ。日本ルピアの市場流通を禁止してウアンNICAに置き換えるための交換レートが
それだった。

ただしその実効性はジャカルタ・ボゴール・バンドン・スマラン・スラバヤなどのAFN
EI軍占領地域内に限られ、他のインドネシア共和国が支配する地域はORIが発行され
るまで、日本軍政期の状況が維持された。インドネシア共和国政府がウアンNICAを認
めるはずもない。

ORI発行を前にしてインドネシア共和国政府は1946年10月1日、ORIと日本ル
ピアの交換比率を定めた。ジャワとマドゥラは1対50、外島は1対100というのがそ
れだ。こちらも、日本ルピアを早々に回収して市場流通から無くしてしまおうというのが
趣旨だった。

AFNEI軍については、「スラバヤの戦闘」
http://indojoho.ciao.jp/koreg/hbatosur.html
をご参照ください。


1945年12月時点でジャワ島内に流通している通貨の内訳は、こうなっていた。
日本軍政発行通貨16億
日本軍進攻前に植民地政庁/ジャワ銀行が発行した通貨3億
NICAの準備金20億

都市部でインドネシア人は、給料や報酬をウアンNICAでもらうようになる。ところが
食料等の生活基幹物資はそのほとんどが都市部の外、つまり共和国支配地域で生産されて
いるのである。

共和国支配地域でウアンNICAは使えないため、都市部住民は貯えていた日本ルピアで
生活基幹物資を入手せざるを得なくなる。ウアンNICAは都市部の中でしか使うことが
できず、それで購入できるものは都市部で生産されるものに限られた。もちろん市民生活
のための輸入活動なども存在せず、せいぜい軍用途の缶詰食品が極めて少量、市場に流れ
出てくるのを手に入れるといったことしかできなかった。

インドネシア文化に通常の闇活動すら、行われなかったのである。闇輸入品を国外から持
ち込んで都市部で売れば大儲けできるにもかかわらず、それは命懸けという高いものにつ
いたためだ。NICAは共和国側が国外から武器兵器を国内に密輸入することへの対応を
看板に掲げて厳しい海上封鎖を行ったが、それはかれらが反乱者と定義付けた共和国側の
近隣諸国との連絡をシャットアウトするのが主目的であり、武器兵器弾薬ばかりか、あら
ゆる物資の国内流入や外交を含めた人的交流までもがその視野に入っていたことは言うま
でもあるまい。オランダ側は反乱者鎮圧のためにあらゆる手段を使った。


社会生活の必要物資を国内生産に依存せざるを得なかったインドネシア国内では、その結
果として経済力の高い都市部に蓄積されていた日本ルピアが続々と共和国支配地域に流出
して行ったのである。流通通貨量の小さかった共和国支配地域の物価がどうなっていくか
は、想像に余りあるだろう。

同時に都市部でも、効用のより強い日本ルピアが量的にどんどんと減少していく。それが
効用のあまりないウアンNICAとの交換比率を実質的に弱めて行った。

通貨交換闇市場ができて、ストップフォード中将が定めた1対33という交換比率はその
ひと月後には1対25に低下し、それから1対20に達するまでにたいした時間はかから
なかった。

ウアンNICAの実質価値の低下は、殺人事件すら引き起こした。西チデンCideng Barat
で商売している華人系商人を東インド植民地軍の兵員が射殺したのだ。公定相場と実質相
場の差を無視した兵員が公定相場を押し付け、挙句の果てに支配者の権威を目にもの見せ
たのである。


増えていくウアンNICAは価値が目減りし、日本ルピアは相対的に価値が上昇しても貯
えは減少の一途であり、そして生産地で起こったインフレが物価を押し上げるという最悪
の経済状況に向かってインドネシア経済は突き進んでいくことになった。

AFNEI軍政はウアンNICAの価値を維持するための経済政策を行うようなポジショ
ンになく、それはNICA(蘭領東インド文民政府)が行うべき責務になるのだが、イン
ドネシア共和国を叩き潰すことをもっぱらの目標に掲げているNICAにとっては、プリ
ブミ社会の混乱は大戦略を支援するのに好都合な作戦だったにちがいあるまい。