「ルピアレートの変遷(終)」(2019年09月24日)

1978年11月15日に有名な11月15日政策KNOP15が打ち出されて、従来か
らの固定相場制は管理変動相場制controlled floating systemへと移行し、レートは62
5ルピア/USDとなった。

この管理変動相場制というのは、外為市場の実勢レートでなく、政府中銀が外為市場に毎
日のレートの許容幅を指図するという手法であり、しかも外為市場に出現する現実の経済
力に応じたレートからの乖離を防ぐために、年間に5%から10%といった幅でレートを
目減りさせていくことも同時に行われた。

しかしそれでも乖離は避けようもなく起こる。そんなとき、政府は抜き打ち的にレートの
切り下げを行い、そしてそのたびに経済は衝撃を受けて動揺した。

1983年3月29日のデバリでは、970ルピア/USDとなり、85年12月のレー
トは1,110ルピア/USDと大台に乗り、1988年10月には1,600ルピア/
USDとなる。


その後もルピアレートは徐々に徐々に下降を続けて1995年1月には2,248ルピア
/USDに達し、そして1997年の通貨危機へと転落して行ったのである。

近隣の東南アジア諸国が激しいレートの変動に喘いでいる中でインドネシアのこうむった
影響は最初比較的小さいものだったから、インドネシアの経済力もなかなかのものだと思
われていた矢先に、2,300ルピア/USDのレベルにあったレートがいきなり暴落を
始めて5,500ルピア/USDに至り、大幅な変動が日々繰り広げられるようになった。

管理変動相場制は既に実効性を失い、政府中銀の管理と調整は後手後手に回ってもはやな
す術を持たなかったようだ。1997年8月14日にオルバ政府はこれまで行われてきた
レート管理のさじを投げ、外為市場で起こっている現象をそのまま受け入れる姿勢に変化
した。完全変動相場制への移行である。


1998年1月末には14,800ルピア/USDを付けたが、2月は7,400ルピア
/USDに回復し、4月には8,000ルピア/USDに微減したが、しかし乱高下は一
向に収まらず98年6月には16,800ルピア/USDまで落ち込んだ。

そんな国内経済の大混乱は石油燃料の市場小売価格引き上げを誘導する。それに応じて学
生を中心にした反対デモが各地で湧き起こる。その一方で、30年以上続いたオルバ政治
体制への変革要求も種々の階層から噴出してきた。

1998年5月5日にメダン、5月8日にヨグヤカルタ、5月12日はジャカルタのグロ
ゴル地区で学生デモと警察反モブ部隊との衝突が繰り返され、学生の中に死者が出る。

そして5月13日の誰が組織したのかわからない計画的組織的大暴動がジャカルタで発生
して、都内のあちこちで火炎が噴き上げ、黒煙が天を覆った。

5月19日には学生デモが国会議事堂を占拠し、国会までもがスハルトへの退陣要求に与
するようになる。

そしてついに5月21日午前9時5分、スハルトの大統領辞任スピーチが行われて、オル
バレジームは終焉を迎えたのである。[ 完 ]