「ジャカルタという名前の謎(2)」(2019年10月08日)

ジャヤカルタの言語面からの考察はそういうものだが、一方ジャカルタという言葉につい
て言語面から分析したものはひとつもない。そもそもジャカルタという語がインドネシア
の地名として歴史の中に登場したことは日本軍がやってくるまで一度もなかったのだから。

歴史を見る限り、ジャカルタという名称は日本人が付けたものという形になっている。日
本軍政はそれまで日本を含めて世界中が使っていたバタヴィアという名称をジャカルタに
変更した。皇紀2602年12月10日に軍政監部が出した告知にはインドネシア語で次
のような内容が記されている。

『バタヴィアの名称をジャカルタに変更する』
何百年も前、バタヴィアの地は日本の民衆にジャカルタという名で知られていたが、オラ
ンダ政府はそれをバタヴィアに変えた。
大日本軍がジャワに上陸して以来、その名称が変更されるように努め、今ここに東京大政
府からバタヴィアの名称を変更する許可を得た。
それゆえに、大東亜共栄圏建設の日である12月8日からバタヴィアの名称はジャカルタ
に変更された。

この告知内容に首をかしげなかった方は、事実歪曲の罠に落ちているにちがいない。今か
ら三百数十年前の日本人が認識していた地名はジャガタラであって、ジャカルタではなか
ったはずだからだ。ジャガタラとジャカルタは明らかに音韻構造が異なっており、「ジャ
ガタラはジャカルタとも言う」というようなファジーな姿勢でそれらを同一視するのは知
性への冒涜としか思えない。

つまりバタヴィアという名を日本に昔あった呼称に戻すというロジックを日本人が唱える
のであるなら、今われわれはこの街をジャガタラJagataraと呼ばなければならないのでは
あるまいか?それがジャガタラでなくジャカルタという言葉に入れ替わったのは、いった
いどうしたことなのだろうか?

そしてまた、ジャカルタという名称はいったいどこから出現して軍政監部上層部や東京大
政府の高官たちの脳裏に宿ったのだろうか?軍政監部の告知は、それらふたつの謎を秘め
ているようにわたしには思えるのである。


軍政監部が言う「何百年も前に日本の民衆が認識していた」ジャガタラという名称につい
て、その背景にわれわれは次のような事実を当てはめることができるだろう。

ポルトガル人歴史家ジョアン・デ・バロスJoao de Barrosの1553年の著作「アジア史」
の中にシャカタラXacataraという地名が登場する。ポルトガル人がシャカタラという呼称
を日本に伝えたとするなら、シャカタラがジャガタラに変化するのは自然な成り行きのよ
うに感じられる。

オランダ人初の1596年インドネシア来航者コルネリス・デ・ハウトマン Cornelis de 
Houtmanの報告書には、ジャヤカルタの支配者パゲラン・ジャヤカルタPangeran Jayakarta
がkoning van Jacatraと書かれていた。ポルトガル人に代わってやってきたオランダ人がジ
ャカトラという名称を日本に伝えたとき、日本人がそれを同一視した可能性は小さくない。
なぜならシャカタラ:ジャガタラ:ジャカトラは音韻構造がよく似ているからだ。

ポルトガル人もオランダ人も、ジャヤカルタという言葉をそのように捉えた。つまりそこ
には:
(A)ジャヤカルタ(原住民語)⇒シャカタラ・ジャカトラ(西洋語)⇒じゃがたら(日
本語)
という流れが存在している。この流れの中にジャカルタという言葉は位置付けられない。


ならば、インドネシア人はジャカルタという語をどのように受け止めているのだろうか?
インドネシア人は一般的にジャカルタJakartaという名称をジャヤカルタJayakartaの短縮形
だと理解している。

現実にJayakartaのyaを軽く発音すれば、次のような音韻変化に向かう。
(B)Jayakarta ⇒ Jaakarta ⇒ Jakarta
これは上記(A)の流れとはまったく関連性も類似性も持たないものだ。[ 続く ]