「知能的な日本軍政(前)」(2019年10月10日) ライター: 社会オブザーバー、国立スラカルタ芸大教官、ジョコ・スリヨノ ソース: 2006年9月9日付けコンパス紙 "Cermin Gratis dari Masa Jepang" 部落の乙名バッ・レソは自宅に入ってきた数人の日本兵を前にして、胸が早鐘を打ち、身 体が小刻みに震えた。他の部落民たちよりも高い教育と教養を持つバッ・レソは、既に全 国各地で定評となっている強圧的な日本兵が自分をターゲットにしたと見て、絶望の淵に 立たされたと感じたのである。 ところが日本兵たちは「われわれはあなたがたの年上の兄弟だ」と丁寧に自己紹介し、 「このたび隣組制度が発足した」と新制度の説明を始めた。隣組制度は今もインドネシア の住民自治システムにRTという形で継承されているもので、その最小単位のRTを統率 する長を現在はKetua Rukun Tetanggaと称するが、発端時は日本語で「組長」という言葉 がそのまま使われた。バッ・レソの部落民はグミチョッgumicokと発音した。日本兵がや ってきたのはバッ・レソをその組長に任命するためであり、組長が担う職務についての説 明を懇切丁寧に行った。 オランダ植民地時代にそのようなシステムは存在しない。オランダ植民地行政の住民管理 の末端はLurah(町長)であり、日本軍政はその下に隣組を設けて住民ひとりひとりに対 する監督行政の体制を作った。軍政の意向を末端まで浸透させるための制度がそれだ。家 庭/戸という社会の末端ユニットのコントロールという、日本の本国で行われているシス テムがインドネシアにも導入されたのである。この体制に載せて、住民行政運営、情報の パイプ、神経戦、大東亜共栄圏プロパガンダ宣伝などが行われた。 日本という国は天然資源が貧困だ。20世紀に入ってかれらが技術革新に成功した後、開 花させた新産業のための原材料をどうするかについて、かれらは頭を悩ませた。この軍国 主義国家は隣国にある豊かな天然資源に目をつけて、中国の占領支配に向かった。 中国の一部を占領してもまだ足りない。かれらは南方の資源を目指して東南アジアに向か った。パプアに行き着き、さらにオーストラリアをうかがうようになる。南進政策は大東 亜共栄圏のプロパガンダに包まれて南方諸国に宣伝されたが、その核心はジャワ・スマト ラ・カリマンタンに西洋人が持っていた油田を筆頭にする諸資源を奪い取ることだった。 それらの油田や鉱山はひとつひとつ、日本軍の手に落ちた。だが大きく広がった戦線を支 えるためには、そんなものではまだまだ不十分だったのである。かれらが確保できたエネ ルギー資源は三カ月先までの戦争活動を支えることしかできなかった。その実情を補うた めに、かれらはバイオエネルギーの生産を計画した。 < トウゴマ大作戦 > 日本軍政は大々的な宣伝を行って、民衆にトウゴマ(又の名ヒゴマ)を植える気にさせた。 隣組長たちが集められて、自分の統率する地域で住民をコーディネートし、できるかぎり 多くのトウゴマを植えさせるよう求められた。 命令はきわめて明瞭だった。空き地があってはならないのである。わずかでも土地が空い ていれば、トウゴマを植えろ。現場での状況視察と指導を日本兵が行った。 この作戦が有効だったことは、わずかな期間に証明された。ジャワのあらゆる住民居住地 区には空き地がなくなり、空き地・垣根・庭・道路わき・川べり・校庭まで、びっしりと トウゴマが覆った。ほとんどすべての使われていない土地にトウゴマが植えられたのであ る。 年上の兄弟は言うことを聞かない弟分のインドネシア人を強圧的に扱い、力ずくで強制し た。稔ったトウゴマの実を集めて乾燥させるよう組長や特定住民が指示され、乾燥させた ものを日本軍のトラックが回収して行った。毎週何トンものトウゴマの実が生産されたが、 それがいったい何に使われているのかについて、日本軍政からの説明は何もなかった。し かしそのうちに明らかになったのは、トウゴマの実から絞られた油が航空機・船舶・自動 車・重機などの燃料や潤滑油にされているということだった。 トウゴマの成功にとどまることなく、かれらはヤシ・豆油・ゴマ・サトウキビと対象を広 げて行った。カポック綿の種油さえ、かれらは見落とさなかった。シンプルな技術を使っ てトウゴマを搾り、得られた低純度の油を集積所に貯え、夜間外出禁止令を利用して深夜 に油は汽車でいずことも知れずに運び去られた。 徹底的な宣伝によって日本軍政は民衆を動かし、植物油エネルギーを生み出すための植物 をあらゆる空き地に植えさせて、バイオ燃料の獲得に努めたのである。その成果は日本軍 の戦争マシーンの稼働が継続することに役立った。[ 続く ]