「日本軍政期のコメ不足(上)」(2019年10月16日)

日本軍政期の始まりと終わりでは、日本軍のインドネシア進出に対するインドネシア人の
印象が180度と言ってよいほど逆転してしまった。最初はジョヨボヨ王の予言が実現し
て白人支配者を追い出してくれたという至福感に包まれたものの、その後で黄色い小人が
何をしたのかが予言されていなかったために、至福感が失望感に転落したときの落差が心
理に過剰なインパクトを与えた面もあったにちがいない。

失望感の原因となった要素のひとつにコメを筆頭として生活用品の品不足が深刻化したこ
とを挙げてよいだろう。窮乏生活はだれにとってもうれしいものでないのだから。

衣料品が手に入らなくなって、誰もが着古したボロを着て町の中を徘徊し、それすらなく
なった者はゴムシートや麻袋で作った服を着ていたという当時の話をわたしに聞かせてく
れたインドネシア人もいる。日本語の「アリガトゴザイマス」をもじってジャワ人は
「Kari Kathok Goceki Mas」とおどけた。その「カリカトゴチェキマス」というジャワ語
は「パンツしか残ってないから、しっかりキープしなよ、兄ちゃん。」という意味だそう
だ。

コメ生産は年を追って低下し、しまいには値段が高騰して手が届かなくなり、飢餓・コメ
泥棒・コメの闇市が至る所に出現した。そもそも1942年に日本軍が蘭領東インドを支
配下におさめたとき、現地の経済は混乱のまっ只中にあったのである。

日本軍の進攻が始まる前にオランダは産業界に対して、あらゆる事業を内陸部に移すよう
命じていた。それが内陸部に防衛線を敷いて日本軍に抵抗する戦略に沿ったものであるの
は明白だ。防衛線の外側は焦土にして日本軍に利用されないようにする方針も併せて実施
された。1940年にジャワ島にあった130カ所のコメ脱穀場は32カ所だけ残してす
べて破壊された。蘭領東インドのコメ脱穀業はそのほとんどが華人系の個人やグループが
経営するものだった。

だがオランダ側の戦略はたいした抵抗戦も行われないままあっけなく幕切れとなり、おま
けに日本軍がスマトラとジャワの占領を開始したとき、インドネシア人プリブミはあちこ
ちで暴動を起こして倉庫や工場を略奪したのである。

華人系社会もそのターゲットにされた。村々ではコメ倉庫が襲撃され、倉庫は打ち壊され
て大量のコメが運び出された。脱穀場の主はやってきた群衆にコメを無料で分け与えた。
自分たちの安全を図るには、それしか道が残されていなかったのだ。日本軍政開始時期の
東インド産業経済はどん底まで落ち込んだと言えるにちがいない。


クサラ・スバギオ・トゥル氏が実兄プラムディア・アナンタ・トゥルの人となりを活写し
て世に送った著作Catatan Pribadi Koesalah Soebagyo Toerには、ふたりの故郷である中部
ジャワ州ブローラ県に日本軍が姿を現したとき、パサルは開かれず、商店は閉まったまま
で、買える商品はどこにも見当たらなかったと記されている。

兄弟は故郷で起こった掠奪事件を目撃した。華人系住民は既に恐怖におびえて、家屋や店
舗をぴったりと閉ざし、家の奥深くで息をひそめていたから、ほとんどが華人オーナーで
ある商店はいずこも閉店していた。ふたりは買物しようとして県内唯一の二階建て家屋の
商店Toko Sinを訪れたところ、そこは前夜に群衆の掠奪が行われた後だったことを知る。

仕方なく兄弟はToko Tikへ回った。するとその店は群衆に取り巻かれており、店内にある
品物を狙うひとびとが壁めがけて石を投げつけている最中だった。


暴動掠奪の嵐が下火になってから、日本軍政は民間経済の整備を開始した。ところがオラ
ンダ系の会社は既に手の付けようがないありさまになっていたことが判明する。軍政監部
は東インドの経済再稼働を目指して組合システムを導入し、その再建に努めた。そのひと
つが米穀卸商組合で、この組合は軍が農民から集めたコメを受けて、それを民生のために
流通させる機能を果たした。

食糧不足は1943年から既に感じられていた。日本軍進攻前にオランダが実施したコメ
脱穀場破壊は日本軍政期間中のコメ不足を更に悪化させる方向に貢献した。[ 続く ]