「ジョグジャにヨシロ運河(後)」(2019年10月24日)

そのあり方を抜本的に変えようとするなら、現在のインドネシア共和国政府が行っている
ように、領土領民を持たないスルタンという形式にせざるを得ない。スルタンには中央政
府が月給を与え、領国は特別州とし、領民は州知事のスルタンでなく共和国政府に所属す
るという意識を培養して行く必要がある。そのような折衷スタイルにしてもなお、ヨグヤ
カルタ特別州民のスルタン王家に対する敬愛の念は薄まる気配を見せないのである。


スナン・カリジャガの言葉がスルタンに名案をもたらした。領民の労働力を徴用し、それ
を領内の工事に使うようにすれば、領民の減少は防ぐことができる。今こそプロゴ川とオ
パッ川をひとつに結び合わすときだ。

領内の貧農地に灌漑水路を敷設して一年中水の豊かな水田地帯を作り出し、日本軍のコメ
備蓄量確保に貢献することができる、というスルタンの申し出を拒否するジョクジャカル
タ候地事務局長官がいるはずもなかった。

こうしてスルタンはその灌漑工事に対する日本軍政の承認と協力を引出し、領民が領地外
に流出することを最小限に食い止めたのである。31.2キロに渡るその灌漑水路が完成
したとき、それはヨシロ運河Kanal Yoshiroと命名された。ヨシロとはいったい誰なのか?

日本人に教えられたとしか思えないインドネシア人の解説によれば、ヨシロとはどうやら
義弘が訛ったものであるようだ。YoshihiroがYoshi-iroになり、そのうちにYoshiroと縮め
られた可能性は想像に余りある。インドネシア人の解説はこうだ。
「偉大なるヨシロ大将軍はわずか3百人の部隊を率いて、イトー・ヨシスケの率いる3千
人もの大軍団に圧勝した。時は1572年のキザキハラにおけるいくさだった。」さあ、
その義弘とは誰だったのか?


その話に対応する史実として日本語ウィキに次のような内容が記されている。文脈に合わ
せるため、文章には筆者が手を加えている。
元亀3年(1572年)、日向国真幸院木崎原(現宮崎県えびの市)において伊東義祐と島津
義弘の間で合戦が行われ、大軍(3000人という説が有力)を擁していた伊東側が僅かな兵
力(300人)しか持っていなかった島津側に大敗したことから「九州の桶狭間」とも呼ば
れる(但し桶狭間の戦いと違い、島津軍も兵力の半数以上という大きな損害が出ている)。

ということで、ヨシロとは島津義弘だったのである。木崎原の読み方は九州南部地方でキ
ザキバルとなるようだが、インドネシア人にそれを教えた人物は標準語読みをしたようで、
つまりは郷土史愛好者でなかった人物の姿がそこに浮かび上がって来るのである。この木
崎原の戦いの物語は当時の大日本帝国の中で桶狭間の戦い並みの知名度を持っていたとい
うことなのだろうか?それともインドネシア人にそれを教えた人物の趣味だったというこ
となのか?カナルノブナガKanal Nobunagaにしなかったのは、果たしてngono ibu naga 
の連想を避けるためだったのかどうか?

その命名についてインドネシア人は、「たとえこのカナルは小さく細い水路でしかないに
せよ、この大戦争にたいへん大きな役割を果たすことになる。寡勢にしてよく大軍を制し
た島津義弘のように。」という意味を込めて付けられた名称だと思われる、と述べている。

カナルヨシロは戦争が終わったあと、スルタンがマタラム用水路Selokan Mataramと改称
した。残念ながら島津の殿様も、新生インドネシア共和国に名を留めることはできなかっ
たのである。[ 完 ]