「マンドルのジェノサイド」(2019年11月02日)

西カリマンタン州議会は2007年州条例第5号で6月28日を州民追悼の日と定めた。
1943年9月から1944年にかけて日本軍が行った地元民大量殺戮の被害者に弔意を
表するためだ。

インドネシア人がTragedi Mandor Berdarah(血塗られたマンドルの悲劇)あるいはPeris-
tiwa Mandor(マンドル事件)と呼んでいるこの大量殺戮は日本人がポンティアナック事件
と呼んでいるものであり、インドネシア側はその被害者数をおよそ21,037人として
いて、日本側が言う1千人程度などという数字はとんでもない話だと反論している。日本
語ウィキには「4千名から2千名と資料によってばらつきがある」と記されていて1千人よ
りは多いのだが、2万人という莫大な数の民間人を日本軍はジェノサイドしたのだろうか?
ちなみに6月28日とは、日本語ウィキに記されている「1944年6月28日の日本軍の軍事法
廷により47名の死刑が確定し、即日処刑がなされた」という部分に対応しているように思
われる。


マンドルとは西カリマンタン州ランダッLandak県マンドル郡のことで、ポンティアナッPon-
tianak市内からマンドル郡に建てられた慰霊碑までは88キロの距離がある。2007年7
月23日のコンパス紙に掲載された記事は、マンドルの慰霊碑Monumen Juang Mandorで行わ
れた州が開催する第一回の慰霊祭について報じている。その記事の中に、地元民カシラムさ
ん当時79歳の証言が登場する。シンカワンSingkawangに住んでいたカシラムさんは194
2年に日本海軍が地元民から募った兵補の一員になった。

1943年初め、マンドルの森林を切り開いて軍事演習場を作るよう兵補隊員に命令が下さ
れた。「作った演習場で大量殺戮が行われ、掘った大きな穴に大勢の死体が投げ込まれまし
た。殺戮に兵補隊員は巻き込まれていません。」

大量殺戮の詳細はいまだに闇の中だ。日本軍が西カリマンタンで発行させたボルネオシンブ
ンの1943年7月1日版に書かれている「西カリマンタンの地元民21,037人がマン
ドル地区で処刑されて埋められた。」という内容をインドネシア側は殺戮規模の根拠にして
いるようだが、しかしマンドル地区で起こったできごとの全貌を証言できる者はひとりもい
ない。またかなりの期間にわたって殺戮が繰り返されており、7月1日までに2万1千人が
殺されているのであれば、全期間中の総数はもっと大きなものになるはずではあるまいか。

対日叛乱計画の首謀者検挙が何度か行われている。その中には、逮捕された者は手を縛られ、
頭に袋をかぶせられてマンドルまで運ばれ、日本刀で断頭されたあと穴に投げ込まれて埋め
られたという話があるにはあるのだが、2万人ともなるとそのすべてが知識人・著名人・有
力者で成り立っていたとは考えにくく、一般民衆がかなりの数含まれていた可能性が高いよ
うに思われる。その大量の一般民衆に対する裁判なしの処刑をするのに、本当に88キロ離
れたマンドルにその都度被害者を連れて行ったのだろうか?

西カリマンタン州庁歴史調査館研究員のひとりは、日本軍は死体を埋めたインドネシア人ま
ですべての者を殺したから、実態を目撃したインドネシア人がひとりも生き残っていないの
は当然で、それが分かるのは日本軍だけであり、そのためメディアが書いた情報は信頼がお
けるものになる、と述べている。現実にマンドル地区から数千人分の人骨が1949年に発
見された事実がある。

日本軍による処刑の被害者になった地元民はポンティアナッのスルタンをはじめその家族、
スルタン領各地区の軍司令官、インドネシア人知識人、華人有力者、地方行政官、政治家、
宗教界著名人から一般民衆に至るまで、種族・宗教・社会階層を問わないジェノサイドだっ
たとされている。


マンドルの慰霊碑は事件から三十数年が経過した1977年に当時の州知事が、2万1千人
の殺戮場所と墓にされた軍事演習場に建てさせたものだ。そして更に三十年が経過してから、
州庁肝いりの催しがそこで行われるようになった。

他の要因がその動きに関わっていたのかもしれないが、戦争の狂気が遺した爪痕を風化させ
ないように努めている意志がきっとどこかに存在しているのだろう。2万1千人がたとえ仮
構の数字であったとしても、風化を拒む意志にとっては意味ある数字に違いあるまい。われ
われは木を見て森を見ないことの愚を理解しなければなるまい。