「ジャカルタの捕虜収容所(前)」(2019年11月04日)

1942年3月1日に日本軍はジャワ島の三カ所に上陸してから、それぞれの攻略地点へ
と向かった。バンテン湾に上陸した日本軍は蘭領東インドの首都バタヴィア制圧を目指し
て東への進軍を開始し、たいした抵抗を受けないままオランダ人がバンドンへ移動した後
のバタヴィアに入った。まず銀輪部隊が到着し、3月5日に主力部隊が軍備を全面放棄さ
れたバタヴィアに入り、インドネシア人の熱烈歓迎を受けた。

ジャワ島を防衛するべきオランダ王国東インド植民地軍はオランダ軍人2万5千人とプリ
ブミ兵員6万人とも10万人とも言うような話になっている。そしてアメリカ・イギリス
・オーストラリア連合軍の兵力が1万6千人あった。一方ジャワ島上陸作戦を敢行した日
本軍の兵力は5万5千人だが、戦力的には圧倒的な力の差があったようだ。

バンドンの山岳地帯によって徹底抗戦を叫んでいたオランダ植民地政庁チャルダ・ファン
・スタルケンボルフ・スタホウエルA.W.L. Tjarda van Starkenborgh Stachouwer第64
代総督は3月8日に無条件降伏し、東インドにいる他の連合国軍に対して日本軍との戦い
の扉を閉ざしてしまった。


降伏調印式はバタヴィアのレイスウエイクパレスPaleis Rijswijk(現在のIstana Negara)
で行われている。敗戦したオランダ軍人とアメリカ・イギリス・オーストラリアなど連合
国軍人たちは戦争捕虜として各地に設けられた収容所に?入れられ、また民間人や婦女子も
敵国抑留者として収容所に入れられた。インドネシア全土で収容所に入れられたヨーロッ
パ人は10万人を超えていたとオランダ人作家は書いている。

20世紀に入ってからオランダ政府は東インド植民地の経済開放政策を進めたため、オラ
ンダ以外の欧米諸国からの投資が高まり、欧米人人口は増加していった。バタヴィア市政
はそれに対処するためにメンテンに高級住宅地の開発を行ったのである。

ドイツ人とイタリア人を除いてすべてのヨーロッパ人が収容所に入れられたのだが、日本
軍はプリブミとヨーロッパの混血者をヨーロッパ人に区分せず、アジア人として処遇し、
自由を与えた。つまり直系の先祖にアジア人が混じっていたなら、その者をアジア人と認
めて収容所に強制収容せず、プリブミと同じように自由な日常生活を送ることを認める、
という方針だ。

行政はアジア系混血者であるということを証明するためにAsal-usul証明書というものを
発行した。その証明書をもらう根拠を探すために、公文書管理局はたいそうにぎわったと
いう話だ。

蘭領東インドでインドIndo(Indo-europeaan印欧混血者の略語)と呼ばれたオランダとプ
リブミの混血者はほとんどがその素性を隠し、オランダ人としてプリブミに君臨し、その
権力と地位を謳歌していたというのに、収容所送りを免れようとして突然大勢が仮面を外
し始めたのである。ただしそうやって収容所送りを免れたものの、さすがに街中を闊歩す
るのは怖かったらしく、家の奥深くでひっそりと暮らすライフスタイルを選ぶ者がほとん
どだったらしい。

1945年末にNICA(蘭領東インド文民政府)がジャカルタに復帰してかつてのバタ
ヴィアを支配下に置いたとき、かれらはまた変貌して再び植民地再支配の旗を振ったのだ
ろうか?


言うまでもないことだろうが、収容所に入れられた戦争捕虜はジャワ島陥落時に捕虜にな
ったオランダや他の連合国軍兵員だけではない。その後もイギリスやオーストラリアの空
軍兵士、撃沈された連合国の艦船や商船に乗り組んでいた軍人や民間人なども追加されて
行った。マラッカやサラワクにいたグルカ兵もジャワ島の収容所に入っていたそうだ。

ジャーナリストで歴史家のアルウィ・シャハブ氏の記事の中に、ジャカルタに設けられた
収容所のデータが記されている。

ジャカルタで最初の収容所はグロドッGlodok刑務所(今のハルコ商業地区)で、日本軍の
ジャカルタ占領が始まった翌日からヨーロッパ人が送り込まれはじめた。ジャカルタ市政
に携わっていた公務員・警官・行政職員たちがメインを占め、人数は4百人にのぼった。
更に1944年2月までにイギリス軍とオーストラリア軍の兵員ならびにクマヨラン空港
で働いていたオランダ人など1千2百から1千5百人が送り込まれている。

1945年1月から終戦までの間は、オランダとプリブミの混血青年や子供650人が収
容された。かれらはジャカルタとバンドンの住民で、大日本に忠誠を誓うことを拒否した
ことが刑務所入りの原因だった。かれらはきわめて劣悪な待遇を受けている。


やはりグロドッのパテコアンPatekoanにあった中華会館所属の華人学校も収容所にされて、
1千人ほどの軍人と民間人が収容された。捕虜や抑留者が他に移された後、ティモール人
労務者やフランス船に乗り組んでいて沈没したのを救出されたインドシナの原住民がそこ
に入っている。[ 続く ]