「ジャカルタの捕虜収容所(後)」(2019年11月05日)

ジャガモニェッJaga Monyet(今のスルヨプラノト通りJl Suryo Pranoto)のオランダ植
民地軍騎兵大隊本部には連合国兵員が収容された。終戦後は日本軍兵員がかれらと交代し
た。

ジャカルタ最大の収容所はジャカルタ第十大隊キャンプで、中央ジャカルタのバンテン広
場に近いクウィニKwini通りの諸軍事施設とガトッスブロト陸軍病院を含む一帯だった。
第十大隊という名称は、最初そこに植民地軍第十大隊が置かれたことに由来している。
ジャワ島で捕らえられたオランダ・イギリス・アメリカ・オーストラリアの兵員がそこに
集められた。4千人を超える兵員が収容され、強制労働を科され、そしてまたあちこちの
収容所に送り出されていった。

中央ジャカルタのクラマッ地区ラデンサレ通りというバタヴィアのエリート地区の数百軒
の家屋が収容所にされて、ジャカルタとチルボンに住んでいた女性と子供2千3百人が1
943年9月までに収容され、44年4月から9月までに更に3千4百人が追加された。
修道女も囚われていたそうだ。終戦後の45年9月にそこに住んでいたのは3千2百人だ
った。

西ジャカルタのグロゴル精神病院には1943年7月から44年8月までの間、1千2〜
4百人の女性と子供が収容されて、精神病患者と起居を共にした。

スライスウエフSluisweg(今のタンバッ通りJl Tambak)にあった税関事務所に日本軍は
バラックを建て、ジャカルタのオランダ人男性をそこに集めて順次バンドンに送り出した。
1942年6月から44年6月までに3千人がそこに入れられた。44年9月からは婦女
子が収容され、45年10月に連合軍が解放にやってきたとき、そこには1千9百人の婦
女子がいた。

ジャティヌガラJatinegaraのブキッドゥリBukit Duriにあった女子刑務所には軍人と民間
人の男性が収容された。

東ジャカルタのカンプンマカッサルKampung Makassarでは1943年5月にヤシ農園が切
り開かれてお粗末なにわか作りの収容キャンプが作られ、45年1月までにオーストラリ
ア軍兵を含む2千人が詰め込まれた。後になってこのキャンプに、西ジャカルタのチデン
Cideng収容所、ボゴールのクドゥンバダッKedung Badak収容所、バンドンのチパハッCipa-
hat収容所から女性と子供3千6百人が移されてきた。
この収容所に入れられた者たちはジャカルタの全収容所に供給するための野菜作りが命じ
られ、また同時に豚の飼育も強制された。そこでは6百頭の豚が飼育されていた。
連合軍解放部隊は1945年9月に3千1百人がそこに住んでいたことを報告している。
翌10月にこのキャンプはスクラップにされた。

タンジュンプリオッ港コジャ地区のユニカンポンUnie Kampongは植民地時代にジャワ人労
働者を北スマトラのデリーDeliに送り出すための船待ち逗留場だったが、日本軍はそこを
イギリス人兵員の捕虜収容キャンプに変えた。バンドンやチマヒからも捕虜が鉄道で送ら
れて来た。ここに収容された捕虜たちは強制労働を科された。日本軍が接収したアメリカ
の自動車メーカージェネラルモーターズの工場で生産に従事させられたのである。
終戦後は日本軍兵員がヨーロッパ人捕虜と入れ替えられ、タンジュンプリオッ港から日本
に向かう復員船に乗せるための船待ちにそこが使われた。

ビダラチナBidaracinaにあったフーデヘルダースティヒティンGoede Herder Stichting財
団が所有する悲しみの聖母Mater Dolorosa館に1945年5月、救急病院が開かれた。ジ
ャカルタのあちこちの収容所から容体の良くない収容者が続々と運び込まれて、患者数は
1千人に達した。そして45年10月までに423人が死亡した。

ビダラチナにあった聖フィンセンティウスSing Vincentius女子寮も1945年3月から
10月まで救急病院になった。その間に1千2百人がジャカルタの諸収容所から運び込ま
れ、一日当たりの平均死亡者は12人にのぼった。

終戦後その二カ所を解放するために訪れた連合軍兵士は、生き残っている1千8百人の患
者を見出したが、骨と皮ばかりになっている者が多かったそうだ。

日本軍はサレンバSalemba刑務所とチピナンCipinang刑務所にオランダ人政治犯およそ6
百人を入獄させて強制労働を科した。憲兵隊の拷問で身体を損なわれた者の治療もそこで
行われていた。[ 完 ]