「英雄軍人は捕虜だった(前)」(2019年11月06日)

東ジャカルタ市チリリタンCililitanバスターミナルにほど近い場所にインドネシア共和
国陸軍の軍用施設がある。そこは植民地時代に野戦警官キャンプveldpolitie kampがあっ
た場所で、周囲はヤシ農園に囲まれていた。チリリタンブサール通り南側のそのキャンプ
はカンポンマカッサルKampong Makassarキャンプとも呼ばれていた。

日本軍はジャワ島を占領すると、大量の連合軍捕虜と敵国民間人を入れるための収容所を
用意しなければならなくなった。カンポンマカッサルキャンプにも白羽の矢が立った。日
本軍はそこをBunsho I Kamp 9と命名した。

この収容所がジャカルタ一円でもっとも原始的な収容所だと言われた。竹と木の骨組みに
ルンビアrumbia(サゴヤシの葉を干したもの)の屋根、グデッGedekと呼ばれる竹編み壁
で作られたバラックが敷地内に立ち並べられたからだ。敷地は鉄条網とグデッで囲われて
いた。


バンドンで降伏した連合軍兵員は刑務所に入れられてから、徐々に収容所に移された。1
942年11月6日、カンポンマカッサル収容所に移されるおよそ1千人の兵士と54人
の将校がバンドン駅から列車に乗せられた。ジャカルタに向かうその列車は午前7時40
分にバンドンを出発して15時20分にメステルコルネリスMester Cornelis(今のジャ
ティヌガラJatinegara)駅に到着し、今のオットーイスカンダルディナタOtto Iskandar 
Dinata通りを徒歩行進してカンポンマカッサル収容所にたどり着いた。

余談だが、日本軍政のオランダ語排除方針によって、メステルコルネリスという地名はジ
ャティヌガラに変更された。しかし戦前世代のインドネシア人はコルネリスという言葉を
省略したメステルという名称をその後も愛用したため、メステルという呼称は最近まで長
期にわたって使われていた。乗合バスの運転手や車掌はメステルと呼ばわるのが普通だっ
たようだ。

連合軍捕虜たちは収容所のバラックの中に一人当たり幅1メートルのスペースを与えられ
て暮らした。その第一陣として入った54人の将校の中に、オーストラリア人エドワード
・アーネスト・”ウエアリー”・ダンロップ中佐がいた。

メルボルンで外科医をしていたダンロップ中佐は、最初北アフリカで対独戦に参加してい
たようだが、日本の戦争開始によってイギリス軍オーストラリア軍は戦力増強のために一
部が東南アジアに振り向けられたことから、エジプトのベイッジルガから兵員輸送船で蘭
領東インドに送られた。出港は1942年1月20日、スマトラ島南部のオーストハーフ
ェンOosthaven(今のランプン州トルッブトゥンTeluk Betung)到着は42年2月15日
だった。折も折、ちょうどその日にイギリス軍の牙城シンガポールが陥落しており、また
南スマトラのパレンバンでも激しい戦闘の結果日本軍が地域一帯を占領している。

そのような情勢下に船は即座にオーストハーフェンからバタヴィアに向かい、2月17日
にタンジュンプリオッ港で全員が上陸した。


中佐が戦後著わした従軍メモワールであるThe War Diary of Weary Dunlopには、日本軍
のジャワ島進攻以来終戦まで捕虜になってしまった中佐の体験が詳細に物語られている。

中佐はバンドンのダゴDago地区にあるダゴキリスト教高校に設けられた連合軍病院の統括
責任者として蘭領東インドでの経歴を開始する。病院で働く206名の兵員と将校がかれ
の部下だった。病院にはイギリス軍オーストラリア軍の兵員をメインにして1,351人
の患者が手当てを受けた。2月末までの死亡者数は9人だった。

日本軍がシンガポールのアレクサンドラ病院を襲撃して虐殺とレープが行われたというニ
ュースが届いたが、日本軍のジャワ島上陸作戦が迫っている慌ただしい雰囲気と世情を覆
っている不安と恐怖の下でスリランカやオーストラリアに逃れようとするヨーロッパ人が
ひきもきらない中、ダゴの連合軍病院で働く者たちはだれひとり脱出を希望しなかったそ
うだ。[ 続く ]