「アンボン島の捕虜収容所」(2019年11月08日)

毎年9月10日に大勢のオーストラリア人がアンボンに集まって慰霊祭を行っている。い
や、それは第二次世界大戦にアンボン島で戦没したオーストラリア人兵員の慰霊を兼ねた、
戦争の終結を記念する催しと言うべきかもしれない。なぜならかれらは、ガルフォース
Gull Force解放の日とその日を呼んでいるのだから。

式典はアンボン市タントゥイTantuiのコモンウェルス墓苑にあるメモリアルビルディング
で行われ、慰霊塔を花で飾ったあと、遺族眷属が墓碑に花束を捧げ、あるいは花びらを撒
いて終わる。

広さ4Haの緑蔭したたるこの墓苑にはアンボン島で没した連合軍兵員2,137人が眠
っており、そのうちの694人がオーストラリア陸軍ガルフォース兵員で、オーストラリ
ア人の他にはイギリス人・オランダ人・インド人・カナダ人・ニュージーランド人・南ア
フリカ人が葬られている。この墓苑こそ、アンボン島で日本軍の捕虜になった連合軍兵員
たちが収容されていた捕虜収容所があった場所なのだ。

そのあと、ひとびとはクダマティKuda Matiに向かう。クダマティには1967年にドラ
ンの碑Tugu Dolanが建てられた。そこには生き永らえて故国に生還できたガルフォース兵
員352人の名前が記されている。アンボン住民はそれをドランの碑と呼んでいるが正し
くはドゥーランDoolanで、ガルフォース兵士トーマス・ウイリアム・ドゥーランの名前に
因んでいる。ドゥーランはその場所で日本軍と戦い、壮烈な戦史を遂げたということだ。


第2/21歩兵大隊は1940年7月11日に編成された志願兵部隊であり、41年12
月8日に開始された日本軍のマラヤ進攻に応じて、アンボン島の防衛力を高めるために4
1年12月にオーストラリアから派兵されたガルフォースの一翼を担った。12月17日
にアンボン島に到着した第2/21大隊1,131人の増員によって、アンボン島防衛兵
力は3千7百人に増強された。アンボン湾およびラハLahaとリアンLiangのふたつの飛行
場が主力防衛ポイントだった。

日本軍は1942年1月30日夕刻から上陸を開始し、31日には各所で激戦が展開され、
押し気味の日本軍は2月2日の総攻撃で勝敗を決した。2月3日には日本軍が全島を制圧
した。

ラハ飛行場防衛のために276名のガルフォース兵員が配備され、そして全員が死んだ。
1月31日の戦闘での戦死者は47人で、229人は捕虜になったが、2月2日の大攻勢
の際に処刑されたという話になっている。戦争が終わってから大量の死体が埋まっている
穴が見つかり、すべての遺体はタントゥイの墓地に移された。

各所での戦闘で、降服しか道が残されていないことが明らかになったとき、逃走した者が
52人出たそうだ。また抑留所から脱走した者も何人かあったらしい。アンボン原住民が
脱走者に助力を与え、脱走者は捕まることなく島の外へ逃げることができた。

また収容所の捕虜たちが飲食物の不足にあえいでいるとき、アンボン原住民はよく捕虜に、
日本兵の目をかいくぐって飲食物を差し入れした。生き延びることのできたガルフォース
兵員は家族や縁者にそれらの体験を洗いざらい話してきたことから、ガルフォース解放の
日にアンボンにやってきたオーストラリア人たちはアンボン住民にささやかな土産物を持
って来ることを毎年の習慣にしている。ある年は、近隣の村々にある小学校の生徒たち用
にたくさんの文房具を寄付した。また種々の食べ物を村の大人たちに分け与えたりしてい
る。

戦争が終わってほぼひと月後の1945年9月10日に、タントゥイの捕虜収容所に囚わ
れていたガルフォース兵員3百人が解放された。かれらにとっての戦争は、その日にやっ
と終わったということだろう。


毎年行われているガルフォース解放の日の式典は、言うまでもなくインドネシア側に協力
者がいる。その催しがトラブルなく行われるよう、アンボンのひとびとが支援しているの
だ。

アンボン側協力者アンドレ・シタナラさんは、「この催しは長い間続けられて年中行事に
なっていたが、1999年に始まった宗教コンフリクトのために途絶えてしまった。20
07年にやっと再開することができた。」と語り、伝統が途絶えてしまったことを残念が
っていた。