「白豪主義を破滅させた日本軍(後)」(2019年11月12日)

オーストラリアメソディスト教会の牧師がすぐさまかれら初代ボートピープルに手を差し
伸べた。教会の講堂を臨時の住まいに開放し、幼い子供たちの教育の場を設け、さらにア
ジア人の子供たちを白人生徒と一緒に学べるよう、オーストラリアの学校に働きかけた。
白豪主義コンセプトからはおよそあり得ないことがらがオーストラリアの一角に芽吹いた
のである。

大人のジャワ人男性には仕事を探してやり、またフットボール観戦や観劇などの社会催事
に努めてかれらを誘い出した。女性にも、オーストラリア人女性ボランティアが手助けを
惜しまなかった。「メルボルン港の片隅で東と西の出会いが起こった」とアーガス紙は書
いた。

ヴィクトリア、ニューサウスウエールズ、クインズランドの三州を中心にして、メルボル
ン・シドニー・ブリスベンなどの都市部のみならず、遠い地方部にまでインドネシア人移
住者は住まわされた。日本軍進攻から逃れてオーストラリアに移ったインドネシア人の総
数はおよそ5千5百人いたとされている。


その国が招いたわけでもない難民に対する待遇は、古今東西言わずもがなのことがらだろ
う。軍人捕虜収容所・民間人抑留者キャンプ・船員用ホステル・船室・オーストラリア人
の家に下宿といった待遇がほとんどだったが、そんな生活の中でインドネシア人は、オー
ストラリア社会の中で教育を受け、勤労し、出生し、あるいは死没して埋葬された。オー
ストラリア人の妻を持つ者も現れた。

レイシズムに覆われていたオーストラリア人にとって歴史的に未経験だったアジア系移民
との社会的共存がインドネシア人を相手にして始まったのである。オランダ人の植民地統
治下にあったインドネシア人が見続けてきた独立の夢が、生活の場をオーストラリアに移
したからと言って、消滅するわけでもない。心あるインドネシア人は祖国の独立を、異民
族の支配下に与えられるものでない真の独立への希求を身近なオーストラリア人に熱く語
ったことだろう。

国是の白豪主義に疑問を抱いているオーストラリア人にとって、インドネシア人との交流
が新たな視野を身に着けるための大いなる刺激になったことは疑いあるまい。肌の色・人
種・宗教・文化などの違いを寄せつけず、ヒューマニズムによって結びつく人間同士の交
流が、オーストラリア人の反植民地思想を鼓吹した可能性は小さくなかったにちがいない。


1949年インドネシア共和国のオランダからの完全独立に関連して、オーストラリアが
国連でインドネシアの独立国家認定の根回しを行ったことは歴史が示す通りだ。その段階
に至るまで、オランダが独立インドネシアの旧態復帰を目指して何度も行った軍事行動を
妨害するべく、オーストラリアの港湾労組は武器を積んだオランダ船に対する荷役拒否を
行っている。

オーストラリアでインドネシア人移住者は、そんな世論を盛り上げるためにメルボルン・
シドニー・ブリスベンにコミティを設けてオーストラリア社会に対する宣伝と説得に努め
た。民族独立の宿願の火を燃やし続けた名前すら残されていないインドネシア人移住者た
ちの功績は実に偉大なものだったと言えるだろう。

インドネシア共和国の完全独立が成ったあと、オーストラリアに逃れていたインドネシア
人の多くは祖国への帰途に就いた。メルボルンを代表する鉄道駅スペンサーステーション
で繰り広げられた帰国するインドネシア人とそれを送り出すオーストラリア人の幾多の別
離は、心で結ばれた両国国民の涙を誘うものになった。しかしそれ以来の両国の友好関係
は、しばらくの間、確固として継続したのである。[ 完 ]