「決死のジャワ島脱出飛行(1)」(2019年11月13日)

1942年3月8日の蘭領東インド植民地政庁最高責任者による対日無条件降伏表明で、
フィリピン・マラヤ・シンガポールから後退してきていた連合国軍は蘭領東インドでの戦
闘の扉を閉ざされ、スリランカとオーストラリアへの再度の撤退を余儀なくされた。

既に出来上がっていた民間人のジャワ島脱出の渦に、軍人までもが加わって行ったのであ
る。移動は船か飛行機しかない。残されたジャワ島脱出の扉はジャワ島南部海岸線エリア
だけだ。その中心になったのがチラチャップCilacapの海港だった。

だがジャワ島南部海域の制空権は日本軍に握られ、おまけに日本海軍潜水艦がインド洋東
部海域に頻繁に出没していたため、チラチャップからの脱出行も安全の保証されないもの
になっていた。

ジャワ島進攻が開始される直前の1942年2月27日、蘭印の連合軍戦力強化のために
P−40戦闘機32機をオーストラリアからチラチャップに運んできた米国空母ラングレ
ーがチラチャップ港まであと121キロという地点で日本海軍九九式艦上爆撃機9機に攻
撃されてインド洋の藻屑と消えた事実が、そんな状況を如実に物語っていると言えよう。


だが、海よりもっと危険な空路をスリランカまで逃げ延びた者もいた。その難航を成し遂
げたのは、蘭領東インド・イギリス・オーストラリア・ニュージーランドの空軍パイロッ
トたちだった。かれらは西ジャワ南海岸部にあるパムンプッPameungpeuk飛行場にあった
ロッキードエレクトラジュニアL−212爆撃機三機のうちの一機に乗り組んでインド洋
を渡ったのである。

西ジャワ州ガルッGarut県の南部海岸地区にパムンプッ飛行場がある。Pameungpeukという
スンダ語の綴りはパムンプッと発音される。パメウンペウクやパメウンプークという音に
はならない。スンダ語には強母音のe、弱母音のe、そして曖昧母音のeuがあり、/eu/とい
うふたつの文字はひとつの音を表しているため、それを分離してはならない。インドネシ
ア語の/ng/と同じ扱いをしなければならないのである。この曖昧母音euはアチェ語にもあ
り、またバリ語でも使われているが、バリ語の曖昧母音euはたいていが語尾に出現する。
バリ語ではこの綴りが使われず、普通は/a/の文字で表記されるにもかかわらず、バリ人
の発音を聞くとpuraがpureuに、KutaがKuteuになっていることに気付くだろう。


パムンプッ飛行場がいつ作られたのか、はっきりしたことはわからない。1925年3月
のバタヴィア新聞にその名が登場していることから、そのころすでに蘭領東インド植民地
空軍の基地として使われていたことがわかる。ジャワ島南海岸部の沿岸警備がその主だっ
た任務だったようだ。

L−212の操縦桿を握ったのは蘭領東インド空軍パイロットのパルク・ぺルダーだった。
というのも、パムンプッ飛行場の爆撃機の所属は蘭領東インド空軍にあったわけで、かれ
が自分をその機の責任者に位置付ける理由は十分すぎるほどだったにちがいない。ただし、
ペルダーはブリュースターバッファローを愛機にする戦闘機乗りで、大型爆撃機飛行士で
はない。

ぺルダー自身ならびに行を共にした諸国のパイロットたちが最初からパムンプッにいたわ
けではない。1942年3月1日にジャワ島中部のエレタンEretanにあるパトロルPatrol
海岸に上陸した日本軍が蘭領東インド空軍カリジャティKalijati基地への攻撃を開始した
とき、かれはカリジャティ〜バンドン防衛線の中にいた。[ 続く ]