「決死のジャワ島脱出飛行(2)」(2019年11月14日)

蘭領東インドが無条件降伏したため、連合軍パイロットたちはオーストラリアやスリラン
カへの移動の順番をバンドンで待った。バンドン市の南部にあるパガレガンPangalengan
地区のチルンチャCileunca湖やガルッ市北部のバグンディッBagendit湖からオランダ王国
海軍所有のカタリナ飛行艇で飛び立つというのがその行動内容だ。

ところがいざペルダーと他のパイロットたちの順番が来たとき、バンドン近辺はすでにた
いへん危険な状態になっており、かれらはバグンディッに移動したにもかかわらず、飛行
艇とのランデブーに失敗した。飛行艇はかれらを南海岸部で拾うことにしたが、波が高く
て着水できず、不運なかれらを置いてそのまま飛び去って行ったのである。

飛行艇での脱出が不可能になったとき、34人のパイロットが残っていた。運に見放され
たかれらは九死に一生を求めてパムンプッ飛行場に向かった。


日本軍に使われるのを惧れてパムンプッ基地司令官が破壊を命じたL−212三機のうち
でもっとも損傷の軽かった機体は尾部が使い物にならなくなっていただけで、エンジンそ
の他は完ぺきな状態であり、パイロットたちはそれを修理してスリランカへ飛ぶことに衆
議一決した。ただし、全員がそれに乗るのは不可能だ。くじ引きが行われた。

オーストラリア空軍パイロットがふたり、カナダ人のイギリス空軍パイロットひとり、ニ
ュージーランド空軍パイロットひとりにペルダーを加えた5人が乗り組むことになった。

くじに外れた者たちも全員が機体修復を手伝った。他の機体から尾部を外して挿げ替える。
工具はドライバーすらない。ネジをコインで回すほかに方法はなかった。

操縦桿を針金で強化し、30ミリ口径機銃を機首と背面アーチ型銃座に据え付け、航続距
離を増すためにP−40用増槽を機内に置いて燃料タンクにつなぎ、ホースを竹のクリッ
プで連結した。24時間かけてL−212は飛行可能な状態に復元されたのである。

しかし機内に置かれた増槽からは燃料の蒸気が機内に満ちた。当然ながら機内は火気厳禁
となる。そんな状態で機銃を撃ったら何が起こるだろうか?運不運の要素が加わるとはい
え、それがかれらの軍人魂を物語るものであったのは疑問の余地のないことだっただろう。


1942年3月9日午前8時、L−212の離陸準備が整ったとき、ひとりのイギリス軍
将校がやってきて自分を乗せるよう強要した。定員は決まっていることを説明すると、そ
の将校は自分より階級の低いイギリス空軍パイロットに交代するよう命じたから、ペルダ
ーは怒り心頭に発した。

この航空機とフライトは蘭領東インド空軍の責任下に行われるものであり、その指揮を執
っているのは自分だとペルダーは主張した。乗組員メンバーはすでに確定しており、その
変更はできない。するとその将校はなんと、分厚い札束を取り出してペルダーを買収しよ
うとしたから、ペルダーは腰の拳銃を抜いて将校を追い払ったというエピソードが残され
ている。[ 続く ]