「ブリタル反乱(3)」(2019年12月18日)

1945年2月5日にトゥバンTubanで十大団の合同軍事訓練が予定されたことから、ス
プリヤディ一派はそのときに反乱を起こして日本人を皆殺しにする計画を組み、軍事訓練
にまぎれて反乱を実行する部隊に武器弾薬と食糧を分配して蜂起を確約した。合同軍事訓
練の中でかれらが反乱を実行し、反乱の趣旨を他の大団に説明して協力を促せば、必ず賛
同する部隊が現れる。これは願ってもない好機である。

ところが合同軍事訓練は直前になって中止され、ブリタル大団は本拠地に戻るよう命じら
れた。理由はボジョヌゴロBojonegoro大団長の死亡ということだったが、その死に関する
説明はなにひとつなく、しばらくしてから日本軍に殺されたのだという噂が広がりはじめ
た。


ブリタル大団が本拠に戻ると、PETA将兵に対する統率がいきなり厳しくなった。5人
以上連れ立って行動したり、群れていてはならない。金曜日や日曜日の外出は禁止。将兵
を訪問してくる家族や民間人に対して大団の状況を話してはならない。大団の監督監視に
当たっている日本人指導官の目が厳しく光りはじめた。

2月9日、スプリヤディはPETA指揮官寮を抜け出して姿をくらました。翌10日16
時ごろ、ホシノ指導下士官が酒に酔って軍刀を抜き放ち、寮の中でゆらゆらと太刀を揺ら
しながら大きい声でわめいた。「小団長、マウブロンタッヤ?Mau berontak ya?」それを
見たムラディ小団長の顔色が変わった。かれは部下にスプリヤディを探してその出来事を
伝えるよう命じた。

指導下士官が本当に酔っていたのか、それとも酔ったふりをしていたのかを確言できるP
ETAの将校はいなかった。一方のスプリヤディはそのとき、ブンドBendo村のクジャウ
ェンの師であるンバ・カサン・ブンドの家にいた。心中の迷いを整理するために、かれは
師の指導を仰ぎに来ていたのである。師の言葉はこうだった。「今はまだ、日本軍に正面
切って立ち向かう時期ではない。もう四か月待つべきだ。だがお前がどうしても立つと言
うのなら、わしはそれを祝福しよう。おまえの闘いはわれらの祖国から侵略者を打ち払い、
われらの民の苦難を軽減する高貴な努力なのだから。」


2月13日20時、ハリル・マンクディジャヤの個室で秘密会合が行われた。25人が集
まった。反乱計画の核をなす四人は同志たちに決起を促した。その日14時ごろ、ブリタ
ル駅に列車が到着し、その一車両にはスマランの憲兵隊がひしめいていたことを大勢が知
っている。憲兵隊はそのままブリタル市内の日本軍将校宿舎になっているサクラホテルに
入った。

指導下士官のふるまいと言い、憲兵隊の増強と言い、日本軍がすでに反乱計画を察知して
いることはそれらが明白に物語っている。かれらは早晩、われわれを逮捕しにやってくる。

われわれは裁かれ、悪くすれば死刑になる。決起しようがしまいがその結末が同じである
なら、何のためにただ座してその結末に身をゆだねようとするのか?われわれは早急に行
動を起こすべきではないのか?そうして結論が出た。

1.今夜のうちに、われわれは行動に出る。これはインドネシア民族の独立と主権を勝ち
取るための行動である。
2、どの国であろうとインドネシアを支配下の自治領にすることは許されない。われわれ
は独立主権を手に入れるための軍事行動を起こすのである。
3.外国人支配者の圧制と搾取を根絶やしにして国民の苦難を打ち切るために、われわれ
は勇気を持って戦い、身命を犠牲にすることも厭わない。
4.反乱の結果として、捕らえられ、拷問され、死刑になる可能性は大きい。だからと言
って、われわれが同胞インドネシア民族の生命を奪うことは極力避けなければならない。

スプリヤディは矢継ぎ早に命令を下した。スマルディとハリルは武器弾薬・食糧・資金を
運び出すために車両を用意し、武器庫・食糧庫の扉を開け。ムラディは戦闘部隊の編成を
行い、全体の指揮を執れ。

ダスリップ小団長の部隊はブリタル市内を制圧してからロドヨLodoyo地区に向かい、その
間に日本人を全滅させること。そのあとギムッNgimutでジョノ小団長の部隊と合流し、ト
ゥルンガグンTulungagungに移動する。[ 続く ]