「ブリタル反乱(終)」(2019年12月26日)

そればかりではない。降伏した日本軍が連合国に命じられてPETAの解散を1945年
8月18日に行ったあと、独立インドネシア共和国は8月22日に人民保安庁Badan Ke-
amanan Rakyatを設立してすぐさま軍隊の編成を開始し、その年10月5日に人民保安軍
Tentara Keamanan Rakyatという名の国軍が創設されてPETAの組織がその中に吸収さ
れた。スプリヤディはその新生インドネシア国軍総司令官にも指名されていたのである。

だが2月14日の反乱挙行の日を境にして姿を消したスプリヤディは、自分のために用意
された大臣と軍総司令官の座を棒に振った。国中のどこの場所にも、スプリヤディが手を
振りながらにこやかに歩み寄って来るシーンは起こらなかったのだ。


反乱軍を組織して作戦要綱を与え、それを送り出した後、自らはどの部隊にも加わらずに
姿を消したスプリヤディはどうなったのだろうか?かれの身にいったい何が起こったのだ
ろうか?

大勢の人間に反乱決起を扇動し、反乱軍が出撃するのを送り出し、自らはどの部隊にも加
わらずに単身で別の方角に向かう反乱首謀者を同志たちは放っておくだろうか?スプリヤ
ディには、自分の行動に関して同志たちを納得させ得るだけの説明がなしには済まなかっ
たはずだ。

戦後、スプリヤディの同志数人が語ったところでは、かれはクルッKelud山に登ったとい
う話だ。身に着けたクバティナンの力を振るってかれは反乱軍を勝利に導こうと考えたの
かもしれない。

スプリヤディと親しかった同志のひとりは「君が山から降りてきたら君のサルンを僕にく
れないか?切れ端でもいいよ。」と依頼したが、スプリヤディは山から戻って来なかった
と語っている。だが世の中にはさまざまな憶測が流れた。

クルッ火山への道中で猛獣に襲われて死んだ。異界に入るためにクルッ山の火口に身を投
げた。クルッの山中もしくは他の場所でモクサの行に入り、姿を消した。実家に逃れてか
ら、あるいは知り合いの別の村の村長宅に隠れ、すべてを捨てて民衆の中に紛れ込んだ。
もちろん、日本軍に捕まって処刑されたという話もその中に混じっている。

もし日本軍に殺されたのなら、スプリヤディの親兄弟がどうして憲兵隊に捕らえられて隠
れ場所の情報を執拗に尋ねられたのだろうか?あるいはもしも生きていたのなら、スカル
ノがスプリヤディに大臣の椅子を用意したにもかかわらず、なぜそれに応じなかったのだ
ろう?

スカルノはスプリヤディが死んでいることを知っていて、組閣の中にスプリヤディの名前
を混ぜたのだという説もある。新生インドネシア共和国は日本の傀儡でないことをアピー
ルするために、スプリヤディの名前がそのシンボルに使われたと言うのだ。確かに、23
歳の若造に大臣や軍総司令官の職務を委ねようというのは常軌を逸したアイデアではある。


スプリヤディはあの反乱の最中か、あるいはその後に、日本軍に捕まって殺されたとかれ
の親族は考えていることを義理の弟が語っている。スプリヤディが消えたというのは日本
軍がジャワ民衆の感情を鎮めるために行ったプロパガンダだ、とかれは言うのだ。「日本
人は上手だ。スプリヤディは姿を消すことができたという話を広めて、ジャワ人の気持ち
に隙間を残した。はっきりさせないようにしておけば、思いつめるようなことにならない
から。」

反乱のあと、父親はクディリの憲兵隊本部に捕らえられたまま独立宣言の日を迎えた。反
乱に参加した者の家族はクルトソノKertosonoにある、兵隊が厳しく見張っている家に集
められて監禁された。9月には全員が処刑されることになっていた。独立宣言がなかった
ら、大量殺りくが行われていたかもしれない。スプリヤディの親族はそのように語ってい
る。


1975年8月9日に時のスハルト第二代大統領は大統領決定書第063/TK/197
5号を出して、スプリヤディを国家英雄に叙した。侵略者に対して反乱を実行したという
のがその叙勲の理由である。その理由付けは日本軍が侵略者と定義されていることを物語
っている。

スカルノのスプリヤディに対する評価とは雲泥の差だ。スハルトのその行為は、スハルト
自身のクジャウェンへの傾注がなさしめたものだったのではないかという気がわたしには
するのだが・・・・[ 完 ]