「ジャワ島の米軍戦闘機隊(2)」(2019年12月30日)

米国空軍第24戦闘機隊グループがフィリピンで壊滅したあと、パイロットの一部はオー
ストラリアに脱出した。本国から機体とパイロットが補充されて、1942年1月にブリ
スベンで五つの戦闘機隊が編成され、その中のひとつ第17戦闘機隊が1月16日にジャ
ワ島の防衛力強化を目的にしてブリスベンを後にし、スラバヤのモロクルンバガンに飛ん
だ。無事にジャワ島まで到達できた戦闘機は13機しかなかった。しばらく遅れて、地上
要員が1月25日にC−47輸送機でモロクルンバガンに到着した。この米軍戦闘機隊は
オランダ植民地政庁が用意した新しい飛行場を基地にすることになっていた。

ジョンバンJombang県ゴロNgoro郡バダンBadang村スコティルトSukotirto部落に作られた
ばかりのブリンビンBlimbing飛行場がそれで、スラバヤの町からおよそ70キロ離れてい
た。軍港と空軍基地がセットになっているぺラッ〜モロクルンバガン(もちろん商港と民
間飛行場としてもセットになっているのだが)はたいへん狙われやすい標的であり、そこ
が破壊されたらすべてご破算というのでは、防衛戦力も何もあったものではない。日本軍
がまだ気が付いていないその新しい基地を使うことで、可能な限り長期に渡って日本軍へ
のしっぺ返しが可能になるというわけだ。

この基地から発信したP−40ウォーホーク戦闘機はパレンバンからクパンまでの広範な
エリアの上空で、圧倒的な数の日本軍機に戦いを挑んだ。戦闘機隊の戦果は、公式報告で
は49機となっているが、隊員の中には69機が正確な実績だと言う者もある。フィリピ
ンで妻子を失った第17戦闘機隊指揮官は、1月20日のバリ島上空での戦闘で撃墜され
た。

3月1日に日本軍がジャワ島の三か所で上陸を行ったとき、ジャワ島の防衛に当たってい
た米国空軍部隊は任務を終えた。第17戦闘機隊とマランMalangのブギスBugis飛行場を
基地にしていた第19爆撃機隊に、オーストラリアへの撤退命令が出されたのである。第
17戦闘機隊はP−40を3機、蘭印空軍に寄贈した。


マランのブギス飛行場は現在のアブドゥラッマンサレ空港である。オランダ植民地政庁は
1937年から1940年までの間に、蘭領東インド空軍の強化をはかって、このブギス
飛行場とともにマディウンMadiunのマオスパティMaospati、ソロのパナサンPanasan、ヨ
グヤカルタのマグウォMaguwoの四飛行場を一斉に建設した。

日本軍は占領後それらの飛行場を使い、戦後はできたてのインドネシア共和国空軍が継続
使用した。インドネシア共和国空軍草創期のストーリーは;
帝国軍用機で始まったインドネシア空軍 http://indojoho.ciao.jp/koreg/htniau.html
をご参照いただけます。

こうして飛行場、つまりは共和国空軍基地、の名称が変更されて、マオスパティはイスワ
ッユディIswahyudiに、パナサンはアディスマルモAdi Sumarmoに、マグウォはアディスチ
プトAdisutjiptoに変わった。その後、アディスマルモとアディスチプトは民間商業空港
との兼用となり、それぞれがソロ空港、ジョグジャ空港に発展している。[ 続く ]