「ジャワ島の米軍戦闘機隊(終)」(2019年12月31日) 日本軍の蘭領東インド進攻が進められていた時期、在蘭印連合軍の航空兵力はお粗末なも のだった。その対応策として連合軍はオーストラリアからP−40を59機、ジャワ島に 送った。組み上がった完全装備の32機とパイロット33人を米国空母ラングレーで、K D状態の27機を輸送船シーウイッチで、フリマントルからチラチャップに向けて送り出 した。 しかし空母ラングレーは2月27日にチラチャップの南121キロで一式陸攻16機の攻 撃を受けて航行不能となり、沈没した結果P−40はジャワ島に届かなかった。一方シー ウイッチは5日遅れてチラチャップに到着したものの、その三日後に日本軍がチラチャッ プを占領し、こちらも連合軍の手に渡ることはなかった。 ブリンビン基地に拠った米空軍第17戦闘機隊の話は2011年5月のコンパス紙に掲載 された記事から採ったものだが、関連するデータを調べているとき、はじめジョンバン県 ゴロ郡の地名が間違っているのではないかという疑問が湧いた。 というのは、ジョンバン県ゴロ郡の飛行場という情報が何ひとつ得られなかったからだ。 一方、ジョンバン県の北東にあってスラバヤに40キロ弱の距離にあるモジョクルト Mojokerto県にもゴロ郡があり、おまけにモジョクルト県にはオランダ政庁が飛行場を作 ったことがあるが、今は消滅してしまっているという情報が見つかるのだから。ただし、 そこにゴロ郡の名前は出て来ない。 呻吟しつつも最終的に何とかジョンバン県ゴロ飛行場というものを検索エンジンで見つけ 出すことができた。Lapangan Terbang Ngoroという名称が模型飛行機大会の開催場所とし て記されている記事が見つかったのである。つまりこの飛行場は現在も存命中であり、い まだ消滅してはいないようだ。 その住所をグーグルアースで調べ、滑走路らしきものを確認した。距離を測ると2百メー トルある。P−40がその滑走距離で離着陸できたのかどうかについて、わたしにはよく わからない。当時の単座戦闘機の中にはそのくらいの距離で離陸できるものがあったよう だが、着陸する場合は5百メートルくらい必要だったという話もあり、ブリンビン飛行場 が作られたときはもっと長い滑走路だったということをそれは意味しているのかもしれな い。 ともあれ、日本軍がジャワ島を占領したときブリンビン飛行場はもぬけの殻だったわけで、 三年半の占領期間中のどこかでその存在は日本軍の知るところとなったと思われるのだが、 日本軍にとっての利用価値はなかったにちがいあるまい。 もともと作られた目的が戦略的な秘密基地だったのだから、そのときの特殊な状況が再現 されないかぎり、だれにとっても利用価値のないものだったように、わたしには思われる。 であるとするなら、現在のジョンバン県ゴロ飛行場が模型飛行機大会以外にどのような使 われ方をしているのか、興味深いところである。[ 完 ]