「行政区画名称の変遷(1)」(2020年01月06日)

日本軍がインドネシアを占領する以前のオランダによる植民地統治は、すべての地方に対
して同一条件で一律に行われていたのではない。歴史が示しているように、各地方にあっ
た王国が個別にオランダに屈してその支配を受け入れていたのだから、オランダに屈服し
た時期が異なり、また屈服の結果オランダとの間に結んだ条約の内容も条件がさまざまに
異なっていた。

この小論で扱っている植民地という言葉は、文字通りオランダ王国が東インドの諸地方を
植民地にしていた時代のことを指していて、植民地にされる以前のVOC(オランダ東イ
ンド会社)による支配と統治の時期は含んでいない。

VOCが破産して東インド支配をオランダ王国政府が肩代わりしたときに東インドの植民
地化が始まり、蘭領東インドはオランダの憲法や法律に従うオランダの領土になったので
ある。そうなってからはじめて、オランダ政府の中に植民地省Ministerie van Kolonien
が設けられた。


VOCというのはあくまでも民間資本の会社であり、会社は経済活動を行って出資者に利
益を分配するという責務を負っていたにすぎない。政府が国有会社を興して国家が運営す
る商活動を行わせ、その国有会社が政府に対して存立の責任を負うという形態になってい
たのでは決してない。

vereenigdeという言葉が示す通りVOC(Vereenigde Oostindische Compagnie)は複数の
会社の連合体であり、政府は激しい競争を行って国内経済に悪影響を及ぼした複数の東イ
ンド物産買付販売を行う民間会社を取りまとめて連合会社を作らせ、また物産調達地での
軍事権や警察権などを与えて会社の商活動のバックアップを図ったにすぎない。言い換え
れば、政府が特権を与える理由があったということだ。

その巨大な民間会社を政府が後押しして国益を高めるよう努めることは当然行われたもの
の、会社は設立定款に従って経済活動を行っていただけにすぎないのである。その目的の
ためにいくつかの地域を征服して支配下に置くことは起こったが、それは商活動の安全性
と利益追求の副産物として出現した例外的なものであり、土地と人民を統治するようなこ
とは主目的になっていなかった。歴代VOC総督がアムステルダムの取締役会Heeren XVII 
に対してだけ業績責任を負い、政府に対する報告責任など少しも持っていなかったことが
それを証明している。


東インドにおけるオランダ植民地の統治行政は大きく分けてふたつのパターンで行われた。
まず地元の王国を通して土地と民衆を支配した間接統治地区Indirect Gebiedと、地元の
王国を廃してオランダ人が首長となり、そこの土地と民衆を支配した直接統治地区Direct 
Gebiedのふたつに区分することができる。

そのいずれもがバタヴィアを本拠にする総督Gouverneur-generaalの支配下にあり、総督
はオランダ女王の名代として東インド植民地の統治を行った。植民地における行政はオラ
ンダ本国政府と議会が定めた法規並びに東インド植民地政庁が定めた法規に従って実施さ
れた。

間接統治地区というのはたいていが昔からあった地元の王国を存続させる形態を取り、そ
こに政庁が代表者を送り込んで地元行政の監視と監督を行った。ヨグヤカルタスルタン国、
スラカルタスナン国、パレンバンやデリーやアチェのスルタン国などがその例だ。それら
は形式上インドネシア語でswapraja(自治領)と呼ばれたが、実態は植民地政庁の操り人
形でしかなかった。王国の中に入って人形を操作したオランダ人は、人形の格に応じて
Gouverneur、Residen、Controleur、Assisten Residenなどの肩書を与えられた。[ 続く ]