「独立宣言文起草の裏表(終)」(2020年01月22日)

[問] ニシジマさんの証言を裏付ける別の証人はいますか?

[答] います。サツキ・ミシマ夫人。住所はアマガサキ市ブコモトマチXXX、電話番号
064−31−XXXX。あのとき、かの女がブンカルノとブンハッタにサウルの食事を
用意したのです。わたしはかの女に、あのときブンカルノ、ハッタさん、スバルジョさん
と一緒に円卓に着いた日本人は何人いたのかと尋ねました。かの女ははっきり答えました。
T.マエダ、T.ヨシズミ、S.ニシジマ、陸軍のS.ミヨシ。

[問] ニシジマさんはブンカルノ、ブンハッタ、アダン・マリッ、アッマッ・スバルジョ
とどのくらい知り合っていますか。

[答] ブンカルノとブンハッタとはジャカルタで知り合いました。そのころ、青年層は大
きく燃え上がっていたのです。そのためわたしは仲介者の位置に就きました。わたしはブ
ンカルノとブンハッタと親しい知り合いの仲であり、武力闘争期にわたしはマカッサルへ
一緒に行ったのです。わたしはハイルル・サレや青年層の付添者にならざるを得ませんで
した。ブンカルノはわたしにたいへん良くしてくれましたし、アダン・マリッはわたしを
兄弟のように扱い、わたしもかれと兄弟付合いをしました。闘争経験者であるかれをわた
しは高く評価しています。
A.スバルジョ氏はわたしの親しい友人です。1954年10月18日にかれはわたしに手
紙を書いてきました。かれはこう書いています。
「独立宣言を実行する中で、聖なる心でわれわれを真剣に手伝ってくれた日本の友人たち
をわたしは死ぬまで忘れないことを信じてください。独立宣言の過程における詳細をつぶ
さに知っているひとはほんの僅かでしょう。たいへん重要な歴史的事件の裏側に一般人の
知らないさまざまなファクターが隠れていることは、既に世界の歴史においてありきたり
のものになっています。アメリカ合衆国の独立宣言でも同様に、宣言文を案出したのはト
ーマス・ジェファーソンでなく、「人間の権利」などいくつかの哲学書を書いたトーマス
・ペインだったことが最近になって判明しました。米国の独立宣言から百五十年たってや
っと、独立宣言の文章を書いた人物が知られるようになったのです。だから、インドネシ
アの独立宣言のプロセスの詳細を知っているあなたのようなひとびとが事実を書き記すこ
とはたいへん重要なのです。わが国の独立宣言がどのようにして行われたのか、その真実
を責任感と客観性を持って将来の歴史家が書き表すかどうかはかれら次第です。」
スバルジョ氏はそう書きました。アダン・マリッ氏は1976年12月28日に東京の高
輪プリンスホテルでわたしにこう言いました。「ニシジマさんが独立宣言文起草に加わっ
ていたことをわたしは故スカルニ君から聞きました。そしてそのことをオランダ側に隠し
て共和国を救ったあなたの行為をわたしは深く理解しています。」
インドネシア民族が独立を達成するための闘争に個人として加わった日本人は少なくなか
ったことをブンカルノも認めています。かれらの功績を称えるために、特に市来龍夫と吉
住留五郎の碑を建立するため、1958年2月15日ブンカルノは東京で碑に書かれる文
章をわたしに手渡しました。その碑は東京都港区の仏教寺院青松寺に建てられています。


インタビューに当てられた一時間は矢のごとく過ぎ去った。もっと他のことがらについて
の話も伺いたかったわたしは、ニシジマ氏の疲労の様子を目の当たりにして、その希望を
諦めざるをえなかった。これがシゲタダ・ニシジマ氏とのインタビューの内容である。事
実に即した独立宣言文起草の内容を書く歴史家が出現して、ニシジマ氏とA.スバルジョ
氏の希望が実現する日を祈ってやまない。[ 完 ]