「独立に貢献した脱走兵(2)」(2020年01月27日)

1946年4月中旬、オーストラリア空軍飛行部隊長フレデリック・ジョージ・バーチャ
ルが率いる四人チームの戦争犯罪者捜索分隊がボゴールとスカブミの境界地区で消息を絶
った。この分隊は全員が殺されたとオーストラリア側は判断した。

その調査を依頼されたインドネシア共和国側は、元日本兵が率いる人民保安軍の一部隊が
四人のオーストラリア兵を殺したようだとの報告を上げている。インドネシア人調査班リ
ーダーは、指揮官の元日本兵はインドネシア東部地方の戦争捕虜キャンプで死刑執行人を
務めていた男で、オーストラリア戦争犯罪者捜索隊が追跡ターゲットにしていた人間だっ
たらしい、と語ったそうだ。

インドネシア共和国軍シリワギSiliwangi師団の戦史録によれば、1948年8月に西ジ
ャワ州ガルッGarutとタシッマラヤTasikmalayaの境界をなすドラDora山麓のパルンタス
Parentas部落でストコ中佐が率いるチタルム旅団の指揮官秘密会議が行われていた時、敵
軍の襲撃を受けて指揮官のひとりが捕らえられた。

捕らえられたアブバカルはハセガワという名の元日本軍人で、オランダ諜報機関NEFI
Sの記録には、ハセガワは日本軍政期にフローレス島に設けられた捕虜収容所で残虐な死
刑執行人として知られていた男であると記されている。

脱走したハセガワはジャワに渡り、ガルッで地元民兵組織に捕らえられ、インドネシア側
に立って武力闘争に加わることを決意し、アブバカルの名をもらってインドネシア人とな
った。

その後シリワギ師団に移って正規軍の将校となっていたが、48年8月にかれの命運は尽
きた。ハセガワを捕らえた時以来、かれと親しくなっていたガルッの民兵組織の一員は、
ハセガワはオランダ側に捕らえられてから数日後に処刑された、と物語った。


インドネシア共和国人民保安軍が歓迎した外国人義勇兵は、人数の上でこそ日本人が最多
数を占めたものの、日本人だけだったわけでは決してない。当時台湾と朝鮮半島は日本の
領土であり、日本人にとっての異民族にあたるかれらにも日本の兵役義務が課されたから、
一律に日本兵と呼ばれてはいても、台湾人もいれば朝鮮半島人も混じっていた。現実に日
本軍脱走兵としてインドネシア軍に身を投じたかれらもいたのだが、ここではそれに触れ
ない。

他の外国人義勇兵の中には、フィリピン人、インド人、パキスタン人、ネパール人、南太
平洋の島の出身者たちまでが混じっていた。インドネシアの終戦処理のために派遣されて
きたAFNEI軍を構成している英国のインド植民地軍兵士の中にいたインド人やパキス
タン人が、インドネシア独立に共感して原隊を脱走し、インドネシアのためにアジアの植
民地支配者であるヨーロッパ人に銃を向けた実例も存在している。その心根はインドネシ
ア独立を維持するために命を捨てた日本人たちと何も変わらない。

外国人義勇兵とは呼べないまでも、インドネシアを祖国と感じている華人プラナカンや、
NICA(蘭印文民政府)を見限ったオランダ領東インド植民地軍のプリブミ将兵たちも、
インドネシア独立維持のための武力闘争に加わった。

いや、そればかりではない。本国が降伏したときたまたまインドネシアにいたドイツ海軍
軍人の中にインドネシア共和国軍に加わった者がいたのは特殊事情と呼べなくもないが、
インドネシアを攻撃の対象にしたオランダやイギリスの国民の中に、インドネシアの側に
立って自民族の軍隊に銃を向け、あるいは舌鋒を振るった人間まで出現したのである。

歴史を、いや人間界の諸事象を、当人たちの心とは無関係にその属性だけを見て単純に白
か黒かで色分けする傾向を強く持つ観念思考者たちの目を開かせるに足る実例を、われわ
れはそこにたっぷりと見出すことができるだろう。[ 続く ]