「独立に貢献した脱走兵(6)」(2020年01月31日)

日本語の軍事操典や軍事教本などの書物のインドネシア語への翻訳が進められて共和国人
民保安軍の質的充実が図られている間に、全国各地でAFNEI軍そしてオランダ軍の攻
勢を目の当たりにし、元日本軍人は続々と戦場に赴いて行った。

1946年9月、ラッマッとアブドゥラッマンはインドネシアとオランダの政治交渉が行
われているリンガルジャティLinggarjatiに出撃した。1947年6月には、マグタンMa-
getanの共和国軍人学校で教鞭を取りながらも、ラッマッはモジョクルトMojokertoのオラ
ンダ植民地軍地区司令部への攻撃を行っている。その年10月にマランMalangに移された
ラッマッは、それまでの共和国軍階級である軍曹から少尉に昇進した。

ところがレンヴィルRenville協定が結ばれ、オランダ側が脱走日本兵をすべて引き渡すよ
う共和国側に要求し、共和国側がそれを呑んだために元日本軍人側の情勢に変化が起こっ
た。元日本軍人は共和国軍の中に混じらないようにして共和国が条約を守っているように
見せ、日本軍人だけが集まって特別ゲリラ隊を編成する方がよいという案をアリフとアブ
ドゥラッマンはスンコノ大佐に諮ったのである。


こうして1948年6月にアリフを隊長、アブドゥラッマンを副隊長にする隊員28人の
特別ゲリラ隊がブリタルBlitar県ウリギWlingi村に誕生した。ラッマッはその中のひとり
だった。スラッマッSurachmad旅団所属とされたこの部隊の担当戦域はダンピッDampit、
南マラン、ウリギで、マラン〜ルマジャンのラインを守備してオランダ軍を内陸部まで入
らせないことを使命としていた。

レンヴィル協定下に停戦状況にある中で、特別ゲリラ隊はウリギの本拠地周辺での戦闘訓
練と原住民への戦闘教育及び訓練、そして食糧調達などに精を出した。渓谷の奥深くに設
けられた本営は、生活用水が確保でき、洞窟があり、森の中に設けられた家屋が巧みに隠
されて、知らない人間には容易に発見されないようになっていた。

肺を冒されていたアリフ大佐が1948年8月10日に没すると、アブドゥラッマン副隊
長が後継した。新隊長となったアブドゥラッマンは攻勢準備を整えた特別ゲリラ隊をダン
ピッ地区とクディリ地区の守備隊に二分した。

前者はアブドゥラッマンが直接指揮する17人、後者はハルソノを指揮官とする11人だ。
ところがアブドゥラッマンを指揮官に仰ぐことを拒む隊員が出た。ラッマッ・オノの回想
によれば、優秀な隊員のひとりだった憲兵隊出身のハサン某が指揮官の資格を問題にして
その部下になるのを拒んだとのことだ。結局ハサンを含む9人が中部ジャワに移され、ダ
ンピッ地区守備隊は戦力が半減した。


吉住は海軍武官府の諜報部門責任者で将校の階級をもらっていたが、元々は一民間人であ
り軍隊経験を持っていない。海軍は民間人であるかれを嘱託に採用する際に将校にした。

一方の市来も民間人であり、陸軍第16軍がジャワ島進攻のしばらく前にかれを宣伝部嘱
託に採用し、軍政期間中には日本語からインドネシア語への翻訳作業に当たらせた。だか
らもちろん市来も軍人でなく、おまけに吉住のように軍階級を与えられることもなかった。

ハサン某はそれを問題にしたようだが、ラッマッに言わせれば、アリフもアブドゥラッマ
ンも並みの軍人をはるかにしのぐ戦意を持ち、統率力と戦略眼に秀でた人物であり、その
種のクオリティがもっとも必要とされる戦場でリーダーとするにふさわしい人間だったと
のことだ。人間の実力よりも肩書を重視する者たちが行った戦争の結末は事実が示してい
る通りだろう。[ 続く ]