「独立に貢献した脱走兵(7)」(2020年02月03日)

特別ゲリラ隊の中核をなすダンピッ守備隊はクルトドルの農園事務所を司令部に使い、ゲ
リラ活動の作戦を練った。当面の目標はダンピッに隣接するワジャッWajak地区に設けら
れたオランダ軍の軍事ポストに対する襲撃だった。

南マラン地区のオランダ軍ポストを襲撃して敵を動揺させること、進入が困難な隔離地区
に共和国軍が入るための進入路を開くこと、隔離地区の住民に反オランダ闘争を宣伝し、
共和国側に就かせてオランダに対するサボタージュや武装攻撃の予備軍にすること、また
情報伝達網を整備することなどがゲリラ隊の活動目的だった。


1948年8月30日、特別ゲリラ隊の初出撃となったパジャランPajaranのオランダ軍
ポスト襲撃は、オランダ兵20人を倒してポストを破壊し、ゲリラ隊員はまったく無傷で
戻って来るという赫赫たる戦果を挙げ、共和国軍の中に賞賛と憧憬を巻き起こした。

その後も続々とつづいた素晴らしい戦果によって、特別ゲリラ隊の評判はいや増しに高ま
り、オランダ軍兵を恐れさせる一方、オランダ軍上層部をして総力をあげてこの特別ゲリ
ラ隊を壊滅させるべく躍起にさせた。オランダ軍パトロール隊は村々を巡回して日本人を
血眼になって探したが、捕まった隊員はひとりもいない。

しかしオランダ軍が総力をあげて追跡した日本人特別ゲリラ隊に、災厄の日が訪れた。1
949年1月9日未明、マラン市南東にあるアルジョサリArjosari村で重厚なオランダ軍
の包囲攻撃を受けたゲリラ隊は進退に窮してしまう。

委縮した隊員の戦意を高めようとして、隊長アブドゥラッマンはオランダ軍の前に銃を撃
ちながら飛び出して行った。部下の元日本軍人ウマル、スカルディ、アブドゥル・マジッ
らも積極攻撃に移ったものの、隊長は敵の集中射撃を浴びて倒れてしまう。弾薬の乏しく
なったゲリラ隊員は血路を開いて戦場から離脱した。しかし特別ゲリラ隊を成り立たせて
きた二人目の男、アブドゥラッマンは戻って来なかった。


1949年1月16日、特別ゲリラ隊はアブドゥラッマン隊長の葬儀を営み、これからの
方針を相談した。戦況は共和国軍側にきわめて不利になっており、スムルSemeru山南部地
区に十分な戦力を持つ部隊がいなくなってしまったことから、マランのウントゥンスロパ
ティ師団は特別ゲリラ隊を再編してスムル山南部地区を担当させることにし、スカルディ
大尉を指揮官としてプリブミ部隊を加えたウントゥンスロパティ第18部隊に変容させた
のである。こうして日本人特別ゲリラ隊は伝説と化した。

ダンピッの町を占領するためにオランダ軍は態勢を整え始めた。周辺地域一帯へのパトロ
ール隊の出動が頻度を増し、諜報特務部隊が作られてスパイ活動が盛んに行われた。共和
国側ゲリラがオランダ軍の動きを妨害するために破壊した橋や道路の修復にも力が入れら
れ、最終的にオランダ軍はダンピッの町に進出した。オランダに反抗的な原住民に対する
抑圧とテロ行動が活発化した。


1949年2月、三小隊から成るウントゥンスロパティ第18部隊はウォノキトリWono-
kitriを発して前進基地を置く予定のクロップKelop山に向かった。防御砦を築いて布陣す
ると、スンブルクンバルSumber Kembar方面に一分隊が斥候に出た。そして敵影なしとの
報告にもとづいて、第1小隊軽機関銃分隊と第2小隊小銃分隊が下山してスンブルクンバ
ルを抜け、ダンピッの町に侵入した。

市場近くの大通りにある三叉路で警備に就いていたオランダ兵ふたりに銃撃を浴びせると、
市場から多数のオランダ兵が出てきて応戦した。しかもパモタンPamotanからオランダ側
の援軍がやってきたのだ。重装備の敵の応戦に苦慮したゲリラ部隊は仕方なく後退する。
オランダ軍が執拗に追ってきたが、いきなりクロップ山の友軍が重機関銃と擲弾筒の攻撃
を浴びせかけたため、オランダ軍は引き上げた。その40分間の戦闘でゲリラ側は死者が
ふたり出た。オランダ側は25人が死んだ。[ 続く ]