「独立に貢献した脱走兵(終)」(2020年02月04日)

数日後、第18部隊はスダユSedayuとバンジャルパトマンBanjarpatomanを占拠した。早
朝にオランダ軍がグラッNgelakからアマダノムAmadanomに向けて移動中との報告を得た第
18部隊はすぐにパンダンアスリPandan Asri山に登って布陣し、敵の接近を待ち伏せる。
敵の待伏せを想像したオランダ軍は動きを止めて銃撃してきたが、ゲリラ部隊は沈黙を守
る。工兵隊と通信隊を従えて重機関銃と携帯機関銃を装備した一個中隊半のオランダ軍は
反応がないため動きを再開した。

午前8時ごろ、射程内に入ったオランダ軍に向けて第18部隊の攻撃の火ぶたが切って落
とされた。銃撃戦はおよそ3時間続き、弾薬が尽きかけたゲリラ側は攻撃を中止した。オ
ランダ軍も銃撃をやめて死傷者を収容し終えると、アマダノムへの移動を再開し、そのあ
と渓谷を超えてダンピッに入った。

翌日、オランダ軍はゲリラ部隊殲滅をはかって、バンジャルパトマンに対する総攻撃を行
った。戦闘機が動員され、パンダンアスリ山一円は荒野と化したが、その報復攻撃を予知
していた第18部隊は前夜のうちにバンジャルパトマン地区を脱出していた。


スムル山南部地区で行われたもっとも激しい戦闘はウォノコヨWonokoyoの戦いだった。戦
闘の初期段階で指揮官と3人の将校を失ったオランダ軍は効果的な戦闘が行えなくなって
いた。結局オランダ軍部隊は崩壊して逃げ去り、ゲリラ側は残された戦利品を手に入れた。
携帯機関銃、騎銃と銃弾3百個、迫撃砲3基と十分な砲弾などだ。

第3ゲリラ司令部はダンピッ奪還作戦を1949年7月27日に決行した。午前5時45
分の擲弾筒発射を合図に、全軍がダンピッの町に向けて攻撃を開始した。しかしオランダ
軍の防御態勢も固く、敵司令部に2百メートルまで接近したものの、オランダ側の反撃が
強まったために結局後退を余儀なくされ、8時半に攻撃部隊は戦場を離脱してガドゥンサ
リGadung Sariに集結し、そこからアンプルガディンAmpel Gadingに向けて移動した。

オランダ軍はスダユから援軍を呼んでゲリラ部隊を追撃しようとしたが、スダユからの援
軍が共和国側のタロッ白虎部隊に前進を阻まれてなかなかダンピッに到着できず、追撃の
機会は失われてしまった。


ダンピッの町中に侵入した攻撃部隊は、オランダ側のスパイになっていた地元民を捕らえ
て処刑した。NICAがインドネシアに戻って来たとき、インドネシア民衆の中にオラン
ダの支配が復活するのを望む者がいたことは当然の事実である。特に華人系住民の中にそ
の傾向が強かったのは、植民地時代の経済メカニズムの中に華人社会が深く関わっていた
ことと無関係ではあるまい。アラブ人やインド人社会との大きな違いがそこにある。

だからと言って、華人という属性を持つ人間がすべて同じような考えを持ち、同じように
行動したなどと考えるのは、人間というものを知らなさすぎる観念思考だろう。共和国軍
に入ったプラナカン華人があったように、オランダの復活を望んでオランダ側にプリブミ
の情報を流した華人もいたということだ。だからスパイであるという証拠の挙がった人間
だけが処刑され、処刑された者の多くが華人系だったということだけが事実なのである。

ただしもちろん、スパイの冤罪がまったくなかったと言い切れる人間もいないはずだ。ま
ったく別の理由から他人を陥れようとする者が冤罪を利用することは大いにありえたのだ
から。この種のできごとは、930事件後の共産主義者粛清の中で、数えきれないほど起
こっている。

スパイたちは強い同情と共感を漂わせて共和国側への支持を示しながら、知りえた情報を
密かにオランダ側に流した。そのために共和国ゲリラ部隊が罠にかかったり、隠れ基地を
襲撃されたり、情報を求めて町に入った隊員が捕らえられたりといった損害がさまざまに
発生している。華人を憎むプリブミにとって、その憎しみの中の一項目にこのようなこと
がらもきっと含まれているにちがいあるまい。そこにも、属性だけを見て個人を見ようと
しない観念思考の弊害が出現している。[ 完 ]