「RT・RW制度の歴史(2)」(2020年02月06日) 1940年、広大な中国大陸で戦争中の大日本政府は、国民社会の最小行政管理単位を新 設して隣組と名付けた。インドネシア語にするなら、Kelompok Tetanggaとなる。隣組の 規模は10から20戸の家族で構成され、そのとき日本には120万の隣組が誕生した。 当時の日本は朝鮮半島・満州・台湾を自国領土としており、それらの土地でも隣組制度は 運用された。 隣組のコンセプトは日本の徳川時代に行われた社会制度に由来している。その時代、社会 は50〜100戸で構成される部落と呼ばれる住民単位に分割され、それは更に5戸から 成る五人組という名の小単位に分けられた。1868年の明治維新でその制度は廃止され たにもかかわらず、大東亜戦争遂行のために1940年に復活したのである。 1942年、日本は歴史に名を遺すハワイのパールハーバー米国海軍基地への攻撃を行っ て、連合国との戦争に入った。連合国が東南アジアに持っている植民地への進攻も開始さ れて、オランダ領東インドもそのターゲットになった。オランダ植民地政庁が降伏して日 本が東インドの主権を握ると、東インドは三分割されて日本の統治が行われた。スマトラ 地区は第25軍、ジャワ・マドゥラ地区は第16軍、カリマンタンと東部インドネシア地 方は第二南遣艦隊が統治の任に就いた。 ジャワで日本軍政は行政官僚に対する総合的改革を行った。当初は、地域区分が三つに分 けられ、第16軍第2師団が西部地区、第48師団が東部地区、第16軍司令部がジャカ ルタとフォルステンランデンVorstenlanden、つまりヨグヤカルタとスラカルタのふたつ の王国領を所轄することになっていたが、準備がなかなか整わなかったことから、194 2年8月1日に今村第16軍司令官は分割案をやめて行政統治を一元化させることを決め た。その際に、行政ヒエラルキーの末端をDesaまで伸ばして住民管理が草の根にまで及ぶ 形が作られた。 ところがそれだけでは軍政監部が求めている戦時下の総合的社会管理が十分に機能しない ことが明らかになり、戦況の推移に合わせて1944年1月11日、ジャワに隣組制度の 導入が開始された結果、全ジャワ島には508,745の隣組が誕生した。 元々日本では部落・集落という地域的最小単位が隣組に分割された構造になっているため、 隣組の上部構造として字(あざ)の概念がジャワにも用いられ、行政構造の末端であるKe- lurahanやDesaと隣組を結び合わせる機構としての機能が与えられた。字は字長(あざち ょう)が統率し、字常会(あざじょうかい)と称する定期会合が開かれて連絡会議の場に なった。 ジャワでは隣組tonarigumiという名称がそのまま用いられ、代表者として隣組長あるいは 組長kumichoが任命された。一隣組は10〜20戸から成り、常会と呼ばれる定期会合が 義務付けられた。隣組は警防団と共に治安維持の役割を担い、行政側からの通達及び物資 配給の受け皿となり、コメ生産と納入の向上を図り、住民同士によるゴトンロヨンの基盤 となるものとして育成が進められた。それに加えて、行政の命じる労務者送り出しにも隣 組の機能が使われて効果を発揮した。[ 続く ]