「古代ジャワでお笑いは免税(前)」(2020年02月24日)

古ジャワ語の記されたロンタルや石碑、あるいは他の刻文の中に、税の免除を公表したも
のがときどき見つかる。どこそこの村をそこに祭られた神に寄進してその村の租税公課を
免除するというようなものがあるのは、その村がそこの神への祭祀を自費で行うようにさ
せるための措置だ。

それ以外に、どの職業は免税にするというようなものもあった。どうやらコメディアンた
ちも免税を与えられていたように思われるものが見つかっている。


古ジャワ語の時代はイスラム勃興の前に当たり、ヒンドゥ=ブッダが社会文化と宗教のメ
インストリームを占め、語彙はサンスクリット語が多用された。とはいえ、サンスクリッ
ト単語と派生関係のないジャワのオリジナル語彙ももちろん使われていた。

そんな中にamirusやabanyolといった単語が見つかる。banyolは現代ジャワ語にも残され
ていて、ジョークなどでひとを笑わせる意味で使われている。amirusはその後どうなった
のかよく分からない。そのアミルスとアバニョルが、支配者が税を免除する職業の中に、
しばしば出現するのである。その事実から、民衆を笑わせて世の中に娯楽と潤いをもたら
すコメディアンの社会的意義が昔から評価されていたのだという結論を引く識者もいる。

近年ジャワ島に進出してきたどこかの国のお笑い興行は、残念な時代のめぐり合わせにな
ってしまったようだ。現代インドネシア社会では、世界中の諸国と同じような大衆化が進
展しており、昔は高く評価された高度な質のお笑いが低質なものの大海に呑まれてしまっ
たあげく、社会的価値などもはや期待するべくもない状況に立ち至っている。


ユーモアは哲学と同じように、知性(理知的な能力)によって回転する。哲学がユーモア
と対立する極に置かれたことはない。その両者は論理思考という同じ橋を渡って結果に行
き着くものなのだから。哲学は論理の完ぺき性を追及するが、ユーモアは論理を破裂させ
てしまう。

ユーモアの中に論理を発見するのは知性にとって最高の瞬間だ。ユーモアは知と快楽を同
時に生み出すのである。ユーモアを通してひとは思考を認識し、思考の愉しみを享受する。
だからユーモアと哲学は一緒になって笑い転げるのだ。ユーモアは知性の代替品であり、
主流をなす知性を見下すことができる、とインドネシア大学哲学科教官ロッキー・グルン
氏は語っている。

インドネシア大学心理学教官サルリト・ウィラワン・サルウォノ氏は、真摯なユーモアは
愛好者に思考を促すと言う。ユーモア愛好者は発せられるジョークの爆発点を探すプロセ
スに引き込まれるのだ。その結果愛好者は、ジョークの創造に自分も関わっている感覚を
抱くことになる。


政治の世界は一般国民に広く関わるものであり、ユーモアの存在は大きな効果をもたらす
ものとされている。ソ連のゴルバチョフ大統領は自分について語られるジョークをたいへ
ん好んだそうで、さまざまな会合の中で自分が登場するジョークをかれ自身が頻繁に物語
り、飽きるほど繰り返されたという噂もある。

ウオッカを買いに来た客のひとりが長蛇の列に怒り、こりゃ政治が悪いのだ、と言い出し
た。だいたいグラスノスチやペレストロイカのような政策をゴルバチョフが始めたからこ
んなことになるんだ。あんな奴は殺さなきゃいけない。クレムリンへ行って奴を殺してく
る。

およそ二時間後にその男はウオッカを買いに来たひとびとが作る長蛇の列にまた並んだ。
その男のことを覚えているひとがクレムリンでの結果を尋ねると、男はこう答えた。
クレムリンへ行ったところ、奴を殺しに来た人間のほうがはるかに長い列を作って並んで
たんだ。オレは短い方の列に並ぶことにした。[ 続く ]