「ムルタトゥリ博物館(3)」(2020年02月28日)

今でもルウィダマルLeuwidamar地区にはコーヒーを栽培している農家が多い。しかしほと
んどの家が自家用に栽培しているだけだから、生産量は微々たるものだ。

強制栽培制度下においても、広大な農園に植えさせたコーヒーはすべて植民地政府の輸出
のために供出させられた。その金になるコーヒーを原住民に飲ませる気を政庁はさらさら
持たなかった。原住民に許されたのはコーヒーの葉を煎じて飲むことだけだったのである。


1970年代前半のわたしがはじめてインドネシアで暮らし始めたころ、インドネシアの
一般庶民にコーヒーを飲む習慣はまだほとんど普及していなかった。外国人と、外国人と
交際する上流家庭は別にして、中流から下の一般家庭ではコーヒーを常備して毎日消費し
ている家のほうが稀だったようだ。

まずジャカルタの街中ですらコーヒーショップはほとんど見つからず、ちょっとコーヒー
でも、というときはホテルのカフェに行かなければならなかった。カフェの看板を出して
いる店はいくらもあるのだが、当時のジャカルタでカフェというのは食事処を意味してお
り、コーヒーももちろんメニューに入ってはいても、コーヒーだけを飲むためにカフェに
入るのもおかしな感触が付きまとい、特に女性を誘ってコーヒーでも飲みながらお話を、
というようなことができる雰囲気ではなかった。要するに、当時の日本の感覚で喫茶店を
探しても、似たようなものはジャカルタのどこにも見つからなかったということだ。それ
ほどコーヒーというものがライフスタイルの外にはじき出されていた時代だったというこ
とだろう。

その一方で、茶店スタイルのコーヒーワルンwarung kopi pinggir jalanはあちこちにあり、
そこにやって来るのは概して肉体労働者が多く、コーヒーはかれらにとって元気を付ける
ためのものという意味合いが強かったようだ。ミルク卵蜂蜜ショウガを混ぜたSTMJの
ようなものが人気商品になった背景には、コーヒーというものの観念がそんなものであっ
たことが推測される。

その時代のインドネシアの大衆文化におけるコーヒーの位置付けがそんなものであったた
め、プリブミの女性たちは申し合わせたかのように、コーヒーを飲まなかった。

あるとき事務員女性にコーヒーをなぜ飲まないのかと尋ねたところ、「だって肌が黒くな
るんですもの。」という返事がかえってきた。インドネシアでは往古から、肌の白いは七
難隠すどころか、やんごとない女性としての絶対条件にされていたのだから。肌の白いの
が美女の条件と言うよりも、男が敬意を払う条件と言った方が的を射ているように思われ
る。まあ、真っ黒に日焼けした農家の娘と色白の肌をした深窓育ちの娘を比較してみれば
わかるだろう。それぞれ見目形がどんなに整っていたとしても、肌の色が立ち居振る舞い
と深く関わっているのは、南国ならではの特徴ではあるまいか。

植民地時代の習慣が維持され、そういった迷信を使ってコーヒーを女性に飲ませないよう
にしていた状況がその話から垣間見られる。インドネシアのそんな状況にブレークスルー
が起こったのは、スターバクスコーヒーが2002年5月17日にジャカルタのプラザイ
ンドネシアに一号店をオープンしたときだ。それ以来、コーヒーはインドネシアの大衆文
化の中に溶け込んでいった。今どき、肌の色が黒くなるぞと脅かしても、昨今のインドネ
シア女性たちはみんなキョトンとするばかりだろう。[ 続く ]