「ナタルのムルタトゥリ(1)」(2020年03月03日)

インドネシアのあちこちの町にムルタトゥリ通りがある。残念ながらデックル通りはひと
つもない。ともあれ、マックス・ハフェラアルの著者ムルタトゥリMultatuli、すなわち
エドゥアール・ダウス・デッカー(現代オランダ語発音、インドネシア語発音はエドゥア
ール・ドウス・デックル)Eduard Douwes Dekkerがインドネシア人にとってどれほど偉大
な人物とされているかをそれは証明しているようだ。どうしてデックル通りがなくてムル
タトゥリ通りなのか?それは言うまでもないだろう。

ムルタトゥリ博物館を設けたランカスビトゥンRangkasbitungの町にはもちろんあるし、
デッカーが初めて赴任した北スマトラのナタルNatalの町にも、ムルタトゥリ通りがある。
だが残念なことに、マンダイリンナタルMandailing Natal県ナタルの町におけるムルタト
ゥリの扱いはランカスビトゥンのようになっていない。小説の中には両方の町の名前が登
場しているというのに。
地元民の99パーセントはムスリムで、華人墓地はあっても世話する人間さえおらず崩れ
かかっているようなありさまのこの地に、どうしてキリスト教徒が好んで使うラテン語由
来のヨーロッパ語Natalという名称が与えられたのか、その由来は諸説紛々だ。
郷土史家によれば、ヨーロッパ人の渡来前にその地は地元の言葉でナタと呼ばれていたら
しい。8世紀にはこの地方にラナナタRana Nata王国が興り、歴代の王のひとりはラジョ
プティエRajo Putiehという名のペルシャ人で、その地にイスラム教を普及させたという
話になっている。ヨーロッパ人がナタをナタルと呼び替えたのは当然の成り行きだったの
かもしれない。

アチェ王国の支配下にあったその地に1751年以来イギリス人が交易ポストを設けてい
たが、1824年のロンドン協定によってオランダに譲渡され、オランダ植民地政庁の行
政統治下に置かれた。デッカーがナタル監視官として赴任したのが1842年だから、オ
ランダにとっての草創期をちょっと超えたころだったと言えるにちがいあるまい。
歴史的に、インド洋に面したスマトラ島北部西岸地方は北端のアチェ王国と西スマトラ地
方のミナンカバウ王国が支配権を争ったエリアであり、後発のアチェ王国がナタルを含め
て南側に連なる一群の商港を武力で奪い取っていった。だからそこは元々ミナン文化の方
が濃厚だった地域だ。
植民地政庁はナタルの南方55キロにある港町アイルバギスAjer Bangisをレシデン区の
首府にしてその北方一円を統治下に置いていたが、1842年にタパヌリTapanuliレシデ
ン区が分割され、ナタルは1843年にタパヌリレシデン区に編入された。デッカーがナ
タル監視官の任を解かれたのは地域割りが変転したその時期に当たっていたようだ。

デッカーの監視官時代の足跡を求めて、今でもヨーロッパ人が時折ナタルにやってくる。
その時代にデッカーが暮らし執務したナタル監視官公邸にやってきた観光客は、しばし呆
然とその跡地の姿を眺めるばかりだ。そこに建っているのはトタン屋根の掘立小屋なのだ
から。
オランダ植民地政庁を代表する監視官がその存在を誇示するべき公邸がそんなものであっ
たはずはない。そんな目でよくよく観察すると、確かにがっしりと作られたセメントの土
台や太い柱の跡が見えてくる。崩れ落ちた建物の残っている部分を利用してその掘立小屋
が建てられているのが分かる。
掘立小屋は4x2.5メートルほどの大きさで、壁は合板板であり、内部は乱雑狼藉なあ
りさまだ。隣人の話によれば、何者かがその家を作って住んでいた時期があったそうで、
それが合法だったのか非合法だったのかすら判然としない。[ 続く ]