「ナタルのムルタトゥリ(2)」(2020年03月04日)

公邸の脇には井戸があり、ひとびとはそれをムルタトゥリの井戸と呼んでいる。その井戸
は当時22歳の独身青年監視官が手ずから掘った井戸だそうだ。路地の入口にはわざわざ
「SUMUR MULTATULI ⇒」と表示された看板が出されているのも、お国自慢のなせるわざか
もしれない。

井戸からは二本のパイプが伸びて、ひとつはムルタトゥリ通りをはさんで向かいにある国
立ナタル第1小学校に、もうひとつは近隣の住民のために水を供給している。水は澄んで
いて淡水魚も中で泳いでいるものの、公邸の裏側は住民がゴミ捨て場に使っていて、ムル
タトゥリの井戸が産する水は汚染水にされていると語る地元の環境問題オブザーバーもい
る。

在校生が380人という国立ナタル第1小学校の正門に近い校庭には、2x1.5メート
ルの建物がある。建物と言うよりセメント造りの箱という雰囲気のそれは、中は空洞で開
けっ放しになっているので、休憩時間に生徒たちがやってきて遊ぶ場所になっているが、
そこはかつて監視官公邸の金蔵だったそうだ。セメント造りの壁はたいへん分厚く、おま
けに壁の厚さと遜色ない厚さの鉄製扉も残されていて、貴重品を置くための倉庫だったこ
とは容易に推測できる。


インド洋に面したナタルは昔栄えた商港であり、アチェ王国の支配下にあった時代にアチ
ェと友好を深めたイギリスがナタルに交易ポストを置いたのも、そういう背景があっての
ことだ。

それがオランダに譲渡されたあと、オランダはナタル海岸に防衛のための要塞を築いて商
港としての機能を保護しようとした。展望塔をふたつ備えたその要塞はいまや崩れ落ちて
その残骸をさらすばかりになっている。

マンダイリンナタルMandailing Natal県の首府はパニャブガンPanyabunganに置かれてい
る。およそ50キロ離れたナタルとパニャブガンを結ぶ街道は、アレクサンダー・フィリ
パス・ホドンAlexander Philippus GodonがマンダイリンアンコラMandailing Angkolaの
副レシデンだった時に建設された。その街道はナタルからパニャブガンまでのおよそ3時
間のドライブに、素晴らしいパノラマをたっぷりとわれわれに堪能させてくれた。

アレクサンダー・フィリパス・ホドンとデッカーは同じ時期に北スマトラの統治行政に携
わり、互いに面識があり、マックス・ハフェラアルの書の中にホドンも登場する。ホドン
も強圧的に民衆を虐げる植民地統治のあり方に反対してリベラリズムを志向した人間であ
り、ふたりは思想的に互いに引き合うものを感じていたようだ。

しかしデッカーが直情的なスタイルで植民地統治機構に対決しようとしたのに比べて、ホ
ドンは統治機構の歯車のひとつの立場を続けながら地元民への福祉向上に努めるスタイル
を守った。

ホドンはマンダイリン地方のコーヒーとカカオ生産の安定的増産に尽力し、地元民への苛
斂誅求を避けることに努め、その努力のひとつとしてかれが造らせたパニャブガン〜ナタ
ル街道はナタルからヨーロッパに向けて積み出される商品作物の輸送効率を大いに高めた。
マンダイリンコーヒーがヨーロッパにその名を知られるようになったことの裏側にはホド
ンの存在が大きく寄与していると評価する歴史家もいる。

マンダイリン住民の間では、世界的著名人ムルタトゥリと同様にホドンの名も高い尊敬の
念とともに知られている。もうひとりの著名人は地元出身の大衆教育先駆者ヴィレム・イ
スカンデルWillem Iskanderだ。1862年、かれはパニャブガンのタノバトTanobatoに
北スマトラ初の教員養成学校を設けた。民衆教育の柱となるのは教師であるというかれの
信念は古今不滅のものだろう。その教員養成学校は現在、国立南パニャブガン第1高等学
校として使用されている。[ 続く ]