「ナタルのムルタトゥリ(3)」(2020年03月05日)

マックス・ハフェラアルが出版されるや否や、東インド植民地で行われている実態を丸裸
にしたその書物がオランダで物議をかもしだした。1860年のオランダ王国議会では、
ヴィレム・イスカンデルに対する奨学金支給問題と併せて本会議で話し合われるべき議題
に取り上げられた。

東インド植民地の経営原理が論争を招き、民間資本への市場開放と自由経済への傾斜が進
行していく。それに加えて人道主義もが東インドの植民地統治を揺さぶるようになってい
った。

1899年にコンラッド・テオドル・ファン・デフェンターConrad Theodore van Deventer
は雑誌デヒッツDe Gidsに「ひとつの名誉債務Een Eereschuld」と題する論説を掲載して、
オランダは東インド植民地から得た恩を返さなければならないと主張した。東インドの民
衆は栽培制度の実行を通してオランダ王国の財政再建に多大な貢献を果たしてくれた。政
府は彼らが流した汗に報いることを考えなければならない。

デフェンターは1859年から1897年まで東インド政庁幹部として奉職した。アンボ
ンの裁判所職員を皮切りにして、最後はスマランの検事の職に就き、そのあとオランダに
帰国した。

かれら東インド経験者らの唱える植民地政策の方向転換は植民地の実情を知らない自由主
義・人道主義国民を動かし、オランダ政府は倫理政策の実施を最終的に決定することにな
る。1901年9月17日、ヴィルヘルミナ女王は議会で灌漑・移住・教育を三本柱とす
る倫理政策の開始を発表したのである。


東インドのプリブミに教育を与える方針は、結果的に種々の種族の青年たちに民族主義と
いう共通の思想を与える結果をもたらした。

ジャワ人に医学教育を与えて医師を養成し、原住民社会の医療保健態勢を向上させるのを
目的にして作られたSTOVIAは民族運動活動家を輩出させる培養器になり、開校から
6年後の1908年5月20日に9人のストヴィア学生がブディウトモ運動を発足させた。

このインドネシア初の民族運動に関わって来たのが、1907年以来バタヴィア新聞Bata-
viaasch Nieuwsbladの記者と編集者を勤めていたエルネスト・フランソワ・エウジェン・
ダウス・デッカーErnest Francois Eugene Douwes Dekker、略してEFE ダウス・デッ
カーで、かれはプリブミ友人たちに対してドウス・デックルを自称として使い、その省略
形にDDを用いた。ここから本論ではかれをデーデーと呼ぶことにする。

デーデーは1879年10月8日に東ジャワのパスルアンPasuruanで、父アウフスト・ヘ
ンリ・エドゥアール・ダウス・デッカーAuguste Henri Edouard Douwes Dekkerと母ルイ
ーザ・マルガレータ・ノイマンLouisa Margaretha Neumannの間に第三子として生まれた。

父のアウフストはムルタトゥリとして知られたエドゥアール・ダウス・デッカーの兄のひ
とりヤン・ダウス・デッカーJan Douwes Dekkerの息子で、ムルタトゥリの甥に当たる。
だからデーデーは血統的にムルタトゥリの姪孫に当たり、デーデーにとってムルタトゥリ
は大叔父になる。

ヤンは1816年6月28日に東インド目指してオランダを去った。そして東ジャワに拠
点を定め、コーヒー農園事業主になった。その息子アウフストは成人してから銀行エージ
ェントと株のブローカー業で生計を立てていた。

デーデーの母ルイーザ・マルガレータ・ノイマンはドイツ人とその妻になったジャワ女性
の間に生まれた娘だ。かの女は近しい人々の間でネスNesと呼ばれていた。ネスはパスル
アンで初等教育を終えるとスラバヤのHBSに入り、更にバタヴィアのエリート学校であ
るヴィレム三世学校Gymnasium Willem III別名カヴェドリKawedri(Koning Willem III)で
学んだ。[ 続く ]