「ナタルのムルタトゥリ(4)」(2020年03月06日)

学業を終えたネスはマラン県スムルSemeru山南麓のスンブルドゥレンSoember Doerenコー
ヒー農園で働くようになったが、マネージャーとの間に不和が起こり、プロボリンゴPro-
bolinggoに近いクラクサアンKraksaanのパジャラカンPadjarakanサトウキビ農園に転勤さ
せられる。その時代、東ジャワでプリブミ水田耕作農民とサトウキビ農園の間で灌漑水利
用にせめぎ合いがよく起こっていたのはプラムディア・アナンタ・トゥルPramoedya Ananta 
Toerの小説に描かれている通りだ。植民地政庁の政策に合致するサトウキビ農園の方を政
治体制が支持したのも当然のことであり、ネスはその不合理に怒りを向けた。ほどなく、
ネスはサトウキビ農園を辞職した。


その母が没したあと、職のないデーデーは第二次ブールBoer戦争に義勇兵として参加する
ため、南アフリカに向かった。だが戦場で敵のイギリス軍に捕らえられ、セイロンの捕虜
キャンプで暮らすことになる。戦争が終わった1902年、かれはセイロンから東インド
に戻って来た。

世界と、そしてその中に置かれている東インドの政治事情に目を開いたかれは、新聞記事
を書き始める。政治体制が行っている権力支配に向けられた批判が論調の基盤に置かれた。


そんな記者活動の毎日の中で、自宅に近いストヴィアに学ぶプリブミ青年たちとの交流が
広がっていく。青年たちのリーダーシップを執るストモSoetomoやチプト・マグンクスモ
Tjipto Mangunkusumoらとの深い友情と信頼関係が築かれて行った。

1912年、かれはチプト・マグンクスモやスワルディ・スリアニンラSuwardi Surya-
ningrat(後のキ・ハジャル・デワントロKi Hadjar Dewantara)と共に政治結社東インド
党Indische Partijを興したものの、植民地政庁は翌年、この政党を非合法にして解散さ
せた。

更にスワルディがデーデーの興した新聞De Expresに書いた「もしわたしがオランダ人な
ら(Als ik eens Nederlander was)」と題する論説を理由にして、三人はオランダに流刑
されたのである。デーデーはその機会を利用してチューリッヒ大学で経済の博士号を取る
ためにスイスに移ったが、インド革命派の謀議に加わったことから、イギリスに捕らえら
れてシンガポールの刑務所に送られた。そこで2年間の服役期間を終えたかれは、やっと
東インドに戻って来たのである。

再び東インドでかれの文筆と論説が鋭い政府批判を歌い始めると、政府特務機関による種
々の嫌疑がかれを襲い、法廷がかれにとってのなじみの場所になる。一方、かれはバンド
ンにクサトリアンインスティテュートKsatrian Instituutを開設して、青年層への民族主
義教育を開始する。かれの歴史教育は反植民地主義に彩られ、その当時、国威を大いに発
揚させて中国朝鮮への拡張をあからさまに示していた日本への畏敬と傾倒がかれの思想の
中核に置かれた。

東インドの脅威になり始めた日本への尊崇教育をプリブミに向かって行われては、植民地
政庁にとってたまったものではあるまい。1933年、バンドンレシデン庁はクサトリア
ンインスティテュートを禁止処分にし、蔵書をすべて焼いた。デーデーはバタヴィアに移
って日本商工会議所で働くようになる。

太平洋戦争が終わってインドネシアに戻って来たNICAに対し、デーデーは不退転の姿
勢を示した。ヨグヤカルタに移ったインドネシア共和国政府を支援するため、かれは19
47年に自らヨグヤに引っ越す。そのとき、かれはドウス・デックルという名前をダヌデ
ィルジャDanurdirdjaに改名した。Danu+Dirdjaは依然としてDDを引き継いでいる。かれ
はインドネシア名としてダヌディルジャ・スティアブディDanudirdja Setiabudiを名乗っ
た。

デーデーの経歴と名声を打ち捨てておくインドネシア政府ではなかった。かれらの精神性
に混血者云々で扱いを変えるような姿勢はきわめて薄い。人間の属性よりも人間そのもの
を見据える目のほうがはるかに強いということだろう。

短命だったが第三次シャッリル内閣でかれは内務大臣を勤めたし、インドネシア共和国の
存立をオランダに認めさせるための政治交渉団員にも加えられた。かれの共和国政府内で
の行政履歴は、情報省歴史記録課長を最期にして終わった。[ 続く ]