「ナタルのムルタトゥリ(終)」(2020年03月09日)

デーデーは余生をバンドンで送り、クサトリアンインスティテュートでの教育を最後の仕
事にした。1950年8月28日にバンドンで没したデーデーは、チクトラCikutra英雄
墓地で眠っている。


デーデーは1903年5月11日にバタヴィアのメステルコルネリスでクララ・シャルロ
ッテ・デイエClara Charlotte Deijeと結婚した。クララは1885年生まれのドイツ・
オランダの混血医師の娘で、ふたりの間には5人の子供が生まれたが、男児ふたりは幼児
期に死亡し、女児が三人育っている。この結婚は1919年に破綻して、ふたりは離婚し
た。

かれは1927年にユダヤ系欧亜混血娘ヨハナ・ペトロネラ・モスルJohanna Petronella 
Mosselと再婚する。1905年生まれのヨハナはクサトリアンインスティテュートの教員
で、学院の事務作業をよく手伝ったことからデーデーと近しくなった。ふたりの間に子供
はできなかった。

1941年にデーデーはスリナムに流刑された。夫との仲を引き裂かれたヨハナはその後
に欧亜混血者のジャファル・カルトディレジョDjafar Kartodiredjo(旧名アルテュール
・コルムスArthur Kolmus)と結婚する。デーデーとの間に法的離婚手続きはまったく行
われていなかった。デーデーがそのことを知っていたのかどうかもはっきりしない。かれ
はスリナムから妻宛に頻繁に手紙を書いていたが、返事は一度も来なかった。

1946年にデーデーは流刑地から逃亡してオランダに潜入し、療養に努めた。かれの健
康の世話をしたのは、寡婦の欧亜混血女性ネリー・アルベルタ・ヒルツマ・ネー・クライ
メルNelly Alberta Geertzema nee Kruymelで、デーデーがオランダからインドネシアに
潜入したとき、ネリーは前夫の子供を連れてデーデーに同行し、NICA特務機関の目を
くらましてタンジュンプリオッ港を偽名で通過しようとしたデーデーの目論見を成功させ
た。

ジャカルタでデーデーは妻のヨハナが既に再婚したことを確認してから、1947年にネ
リーと結婚した。

デーデーがインドネシア名に改名するとき、スカルノ大統領がかれにダヌディルジャ・ス
ティアブディを、ネリーにハルミ・ワナシタHaroemi Wanasitaの名前を提案し、ふたりは
それを受け入れた。デーデーが没した後、ハルミは1964年にウエイン・エヴァンス
Wayne E. Evansと結婚してアメリカに住んだ。


デーデーとハルミの間に子供ができたのかどうかが判然としない。デーデーがインドネシ
アの民衆と国のために全力を投じて闘争を実行したのとは裏腹に、デーデーの子供たちも
姉や兄弟たちも、日本軍進攻を前にして全員がオランダに帰国してしまった。かれらの間
にインドネシアに残って独立戦争を体験し、その果てにインドネシア国籍を取得した者は
ひとりもいない。

大きな事業、大きな善を為す者は、個人的な善に恵まれないという実例をわれわれはデー
デーのケースにも見出すことになる。ところが2009年7月の新聞記事に、デーデーの
唯一の息子キシワラ・スティアブディKisjiwara Setiabudiの名前が登場する。そのとき
64歳のキシワラはデーデーとハルミの唯一の子供であり、アメリカで高校と大学UCL
Aを卒業したが、インドネシア国籍を維持してボゴールに在住しているということがそこ
に述べられている。

インドネシア文化では血のつながりをことさら取り立てて言う傾向が薄いことから、たと
えデーデーの義理の息子であっても新聞が上のように表現することは大いにありうるよう
にわたしには思われる。わたしもキシワラ氏の血筋の詮索などという愚かなことは控える
方がよいのかもしれない。[ 完 ]