「東インド植民地警察(3)」(2020年03月12日)

ともあれ、植民地警察の現場警官がプリブミだったとはいえ、そのマジョリティを占める
アンボン人もマナド人もインドネシア全体で見るならマイノリティだ。おまけにアンボン
人は警官でなくとも、強圧的暴力的な種族と他のプリブミたちから見られ、怖れられてい
る。

住民のマジョリティであるジャワ・スンダ・スマトラ諸族の目から見るなら、そんなネガ
ティブイメージと相まって、それで同朋意識が盛り上がるようなことになるはずがない。
そこに他種族国家の弱みがある。原住民らにとって植民地警察は、どう転んでも身近に感
じさせる要素を持たない、政治支配者が新設した支配のための道具という感覚に終始した
ようだ。


1911年に植民地警察はバタヴィア・スマラン・スラバヤなどの主要都市部で警察組織
の再編を行った。目的は命令系統の最適化やシステマチックな階級昇進の体制作りなどだ。
この種の改善は何度も繰り返されたが、もっとも本質的な部分である業務監督の効率効果
向上やプロフェッショナリズムの培養といった点にはたいして役立たなかった。

1916年6月25日にスラバヤでサレカッイスラムSarekat Islamが大規模デモを計画
した。その数日前にクラナン郡の警察副ウドノが暴動発生の予防のためにデモ隊は竹編み
笠をかぶらないようにせよと命令を出した。デモ参加者は田畑での作業の途中でデモにや
ってくるのだからそれは無理だとデモ組織者のSIスラバヤ支部長が反論し、暴動は起こ
させないとの保証を入れて無理を引っ込めさせたという記録がある。

1919年10月にスラバヤで、警察と軍人の喧嘩立ち回りが発生した。その夜、夜市で
開帳した華人賭博場から出て来た20人の軍人とブグナンの交通警官の間で鞘当てが起こ
り、オランダ人チーフエージェントひとりとその部下のジャワ人エージェント4人が軍人
と立ち回りを演じた。かれらがクレワンklewang(片刃蛮刀)、銃剣、拳銃から石に至る種
々の武器を手にして殺し合いを行った事件の原因が何だったのかは記録されていない。警
察と軍人の犬猿の仲はバタヴィアやスマランなど別の都市でも類似の事件を発生させてい
る。共和国統一国家になってからも、オルバ時代を超えてこの現象は継続し続けた。この
民族にとって伝統の力がいかに強いかをわれわれはそこに見ることができるようだ。


1930年の植民地警察は5万4千人の要員を擁し、そのうちの96%はプリブミだった
とのことだ。植民地警察が解体されて日本軍政下のKeisatsuに取って代わられたときの植
民地警察の陣容は次のようになっていた。

Hoofdcommissaris van politie (イ_ア語はHopkomisaris Polisi) 10人
Commissaris van politie (Komisaris Polisi) 117人
Wedana Polisi 13人
Hoofdinspecteur van politie (Hopinspektur Polisi) 63人
Assisten Wedana Polisi 88人
Inspecteur van politie (Inspektur Polisi) 545人
Mantri Polisi 1,463人
Hoofdagent van politie (Hopagen Polisi) 513人
Hoofd Posthuis Commandant (Hopposhiskomandan Polisi) 154人
Posthuis Commandant/Recherche (Poshiskomandan/reserse Polisi) 2,582人
Agen polisi 26,073人
合計31,620人
[ 続く ]