「東インド植民地警察(終)」(2020年03月18日)

だからその種の対応能力を強化するために、政庁は1916年政治情報局Politieke 
Inlichtingen Dienstを設けた。バタヴィア・バンドン・スマラン・スラバヤなどの反体
制運動の巣窟と見られている町に支局やエージェントが置かれた。

諜報能力の強化は第一次世界大戦という非常事態と大きい関連性を持っている。イギリス
やフランスと違って一流の軍隊を持たないオランダは、中立国を標榜してこの大戦を乗り
切ろうとした。軍事力を使わないで大戦を乗り切るためには優秀な諜報能力を持たなけれ
ばならない。その目指すところは国防であり、政府を転覆させようとする動きも当然その
対象に含まれる。こうして民族主義と独立運動が、そして共産主義が諜報部門の標的に据
えられることになる。


1919年に第一次世界大戦が終了すると、政治情報局も解散した。しかし民族主義も独
立運動も共産主義も、いよいよ運動が活発化こそすれ、無くなる気配などまるで見当たら
ない。その結果政治情報局が解散してから5カ月後に一般捜査局Algemene Recherche 
Dientsが設けられた。要は名前が変わっただけであり、政治情報局が別の名前で生まれか
わったようなものだ。

活動家は常に監視され、講演や会合などでは監視に来た一般捜査局要員がいきなり途中で
禁止を命じ、解散させるようなことも再三行われた。一般捜査局は配下のエージェントだ
けでなく警察からも情報を集めて捜査活動の幅を広げた。活動の中にはメディア検閲、報
道関係者証明カード発行の監督、逮捕や流刑の提案、公共スペースの監視などが含まれて
いた。

特に1926〜27年の共産党蜂起事件後、政庁は諜報体制と活動の強化を血眼になって
進め、一般捜査局の反政府活動に対する硬直化は甚だしいものになっていった。またイギ
リスとフランスの植民地諜報機関との間に協力関係が構築された。


そんなありさまを称して、蘭領東インドは警察国家であるという形容が一般的なものにな
った。たとえばフランス人学者で植民地主義者だったブスケG.H. Bousquetは1930年
に東インドを訪れて講演を行ったが、来る前と帰った後でかれの蘭領東インドの印象は天
と地ほどひっくり返ってしまう。東インド滞在中にかれを遇した政庁諜報関係者の疑惑に
満ちた扱いがその原因だった。

訪問前にかれが持っていた蘭領東インドに対するイメージはたいへんポジティブなもので、
憧れの東インド訪問を大きい喜びとしてかれはやってきた。ところが東インドのどこへ行
こうが、かれにはピッタリと尾行者がつき、かれが町に到着すると、東インドで禁じられ
ていることがらをかれにくどくどと説明する者が滞在ホテルにやって来る。いざ講演のと
きには、監視員が乗り込んできて疑惑のまなざしを向けて講演内容を監視する。話の内容
が直接東インドに関わるものでなかったから、講演途中で口出しや解散命令などは起こら
なかったものの、かれは結局うんざりして東インドを去ることになった。

法律の意図にはお構いなしに、植民地政府の完ぺきな存在を守るために法を曲げて運用し
ている政庁役人の頭の硬さはまともとは思えない、という内容のコメントが遺されている。
蘭領東インドが警察国家になった裏側には、(1)あらゆる政治問題を治安と秩序の障害
として一律に見なしたこと、(2)住民の政治生活に干渉する権限を警察機構に持たせた
こと、(3)中央政府が警察機構を国家コントロールのツールに使ったことの三要素が存
在した、と東インド植民地警察に関する研究を発表したマリケ・ブルムベルヘンMarieke 
Bloembergenはその論文に記している。[ 完 ]